第十四帖 澪標(みおつくし)源氏物語
数ならで なにはのことも かひなきに 何みをつくし 思ひ初《そ》めけん 田蓑島《たみのじま》での 祓《はら》いの木綿《ゆう》につけて この返事は源氏の所へ来たのである。 ちょうど日暮れになっていた。 夕方の満潮時で、 海べにいる鶴《つる》も鳴き声を…
源氏は懐紙に書くのであった。 みをつくし 恋ふるしるしに ここまでも めぐり逢ひける 縁《えに》は深しな 惟光に渡すと、 明石へついて行っていた男で、 入道家の者と心安くなっていた者を使いにして 明石の君の船へやった。 派手な一行が浪速を通って行く…
こちらの派手な参詣ぶりに畏縮《いしゅく》して 明石の船が浪速のほうへ行ってしまったことも惟光が告げた。 その事実を少しも知らずにいたと 源氏は心で憐《あわれ》んでいた。 初めのことも今日のことも住吉の神が 二人を愛しての導きに違いないと思われて…
こんな時に自分などが貧弱な御幣《みてぐら》を差し上げても 神様も目にとどめにならぬだろうし、 帰ってしまうこともできない、 今日は浪速《なにわ》のほうへ船をまわして、 そこで祓《はら》いでもするほうがよいと思って、 明石の君の乗った船はそっと住…
大臣家で生まれた若君は馬に乗せられていて、 一班ずつを揃《そろ》えの衣裳にした幾班かの 馬添い童《わらわ》がつけられてある。 最高の貴族の子供というものはこうしたものであるというように、 多数の人から大事に扱われて通って行くのを見た時、 明石の…
明石に来ていた人たちが昔の面影とは違ったはなやかな姿で 人々の中に混じっているのが船から見られた。 若い顕官たち、殿上役人が競うように凝った姿をして、 馬や鞍《くら》にまで華奢《かしゃ》を尽くしている一行は、 田舎《いなか》の見物人の目を楽し…
さすがによそながら巡り合うだけの宿命に つながれていることはわかるのであったが、 笑って行った侍さえ幸福に輝いて見える日に、 罪障の深い自分は何も知らずに来て 恥ずかしい思いをするのであろうと思い続けると 悲しくばかりなった。 深い緑の松原の中…
この秋に源氏は住吉詣《すみよしもう》でをした。 須磨《すま》、 明石《あかし》で立てた願《がん》を 神へ果たすためであって、 非常な大がかりな旅になった。 廷臣たちが我も我もと随行を望んだ。 ちょうどこの日であった、 明石の君が毎年の例で参詣する…
皇太后は人生を恨んでおいでになった。 何かの場合に源氏はこの方にも好意のある計らいをして 敬意を表していた。 太后としてはおつらいことであろうとささやく者が多かった。 兵部卿《ひょうぶきょう》親王は 源氏の官位剥奪《はくだつ》時代に冷淡な態度を…
入道の宮をまた新たに御母后《ごぼこう》の位にあそばすことは 無理であったから、 太上天皇に準じて女院《にょいん》にあそばされた。 封国が決まり、 院司の任命があって、 これはまた一段立ちまさったごりっぱなお身の上と見えた。 仏法に関係した善行功…
源氏は今も尚侍《ないしのかみ》を恋しく思っていた。 懲りたことのない人のように、 また危《あぶな》いこともしかねないほど熱心になっているが、 環境のために恋には奔放な力を見せた女もつつましくなっていて、 昔のように源氏の誘惑に反響を見せるよう…
源氏は東の院は本邸でなく、 そんな人たちを集めて住ませようと 建築をさせているのであったから、 もし理想どおりにかしずき娘ができてくることがあったら、 顧問格の女として才女の五節などは 必要な人物であると源氏は思っていた。 東の院はおもしろい設…
「なぜあの時に私は非常に悲しいことだと思ったのでしょう。 私などはあなたに幸福の帰って来た今だっても やはり寂しいのでしたのに」 と恨みともなしに おおように言っているのが可憐《かれん》であった。 例のように源氏は言葉を尽くして女を慰めていた。…
水鶏《くいな》が近くで鳴くのを聞いて、 水鶏だに 驚かさずば いかにして 荒れたる宿に 月を入れまし なつかしい調子で言うともなくこう言う女が 感じよく源氏に思われた。 どの人にも自身を惹《ひ》く力のあるのを知って 源氏は苦しかった。 「おしなべて …
何年かのうちに邸内《やしきうち》はいよいよ荒れて、 すごいような広い住居《すまい》であった。 姉の女御《にょご》の所で話をしてから、 夜がふけたあとで西の妻戸をたたいた。 朧《おぼ》ろな月のさし込む戸口から 艶《えん》な姿で源氏ははいって来た。…
こんなふうに紫の女王《にょおう》の 機嫌を取ることにばかり追われて、 花散里《はなちるさと》を訪ねる夜も 源氏の作られないのは女のためにかわいそうなことである。 このごろは公務も忙しい源氏であった。 外出に従者も多く従えて出ねばならぬ 身分の窮…
「そんなにあなたに悪く思われるようにまで 私はこの女を愛しているのではない。 それはただそれだけの恋ですよ。 そこの風景が目に浮かんできたりする時々に、 私は当時の気持ちになってね、 つい歎息《たんそく》が口から出るのですよ。 なんでも気にする…
乳母は源氏の手紙をいっしょに読んでいて、 人間にはこんなに意外な幸運を持っている人もあるのである、 みじめなのは自分だけであると悲しまれたが、 乳母はどうしているかということも奥に書かれてあって、 源氏が自分に関心を持っていることを知ることが…
入道の身分に近いほどの家の女《むすめ》も ここに来て女房勤めをしているようなのが幾人かはあるが、 それがどうかといえば 京の宮仕えに磨《す》り尽くされたような年配の者が 生活の苦から脱《のが》れるために田舎下りをしたのが多いのに、 この乳母はま…
海松や 時ぞともなき かげにゐて 何のあやめも いかにわくらん からだから魂が抜けてしまうほど恋しく思います。 私はこの苦しみに堪えられないと思う。 ぜひ京へ出て来ることにしてください。 こちらであなたに不愉快な思いをさせることは断じてない。 とい…
現代には二つの大きな勢力があって、 一つは太政大臣、 一つは源氏の内大臣がそれで、 この二人の意志で何事も断ぜられ、 何事も決せられるのであった。 権中納言の娘がその年の八月に後宮へはいった。 すべての世話は祖父の大臣がしていて はなやかな仕度《…
院は暢気《のんき》におなりあそばされて、 よくお好きの音楽の会などをあそばして 風流に暮らしておいでになった。 女御《にょご》も更衣《こうい》も御在位の時のままに侍しているが、 東宮の母君の女御だけは、 以前取り立てて御寵愛《ちょうあい》があっ…
五月の五日が五十日《いか》の祝いにあたるであろうと 源氏は人知れず数えていて、その式が思いやられ、 その子が恋しくてならないのであった。 紫の女王に生まれた子であったなら、 どんなにはなやかにそれらの式を 自分は行なってやったことであろうと残念…
別れの夕べに前の空を流れた塩焼きの煙のこと、 女の言った言葉、 ほんとうよりも控え目な女の容貌の批評、 名手らしい琴の弾きようなどを 忘られぬふうに源氏の語るのを聞いている女王は、 その時代に自分は一人で どんなに寂しい思いをしていたことであろ…
どんなにこの人が恋しかったろうと別居時代のことを思って、 おりおり書き合った手紙に どれほど悲しい言葉が盛られたものであろうと思い出していた源氏は、 明石の女のことなどはそれに比べて命のある恋愛でもないと思われた。 「子供に私が大騒ぎして使い…
夫人には明石の話をあまりしないのであるが、 ほかから聞こえて来て不快にさせてはと思って、 源氏は明石の君の出産の話をした。 「人生は意地の悪いものですね。 そうありたいと思うあなたにはできそうでなくて、 そんな所に子が生まれるなどとは。 しかも…
明石の君は感想を少し書いて、 一人して 撫《な》づるは袖《そで》の ほどなきに 覆《おほ》ふばかりの 蔭《かげ》をしぞ待つ と歌も添えて来た。 怪しいほど源氏は明石の子が心にかかって、 見たくてならぬ気がした。 ❄️雪花歌譚 written by のる❄️ 少納言…
若い母は幾月かの連続した物思いのため 衰弱したからだで出産をして、 なお命が続くものとも思っていなかったが、 この時に見せられた源氏の至誠にはおのずから慰められて、 力もついていくようであった。 送って来た侍に対しても入道は心をこめた歓待をした…
摂津の国境《くにざかい》までは船で、 それからは馬に乗って乳母は明石へ着いた。 入道は非常に喜んでこの一行を受け取った。 感激して京のほうを拝んだほどである。 そしていよいよ姫君は尊いものに思われた。 おそろしいほどたいせつなものに思われた。 …
京の間だけは車でやった。 親しい侍を一人つけて、 あくまでも秘密のうちに乳母《めのと》は送られたのである。 守り刀ようの姫君の物、若い母親への多くの贈り物等が 乳母に託されたのであった。 乳母にも十分の金品が支給されてあった。 源氏は入道がどん…