第十二帖 須磨(すま)源氏物語
朧月夜との仲が発覚し、 追いつめられた光源氏は後見する東宮に累が及ばないよう、自ら須磨への退去を決意する。 左大臣家を始めとする親しい人々や藤壺に暇乞いをし、 東宮や女君たちには別れの文を送り、 一人残してゆく紫の上には領地や財産をすべて託し…
尚侍《ないしのかみ》は 源氏の追放された直接の原因になった女性であるから、 世間からは嘲笑的に注視され、 恋人には遠く離れて、 深い歎《なげ》きの中に溺れているのを、 大臣は最も愛している娘であったから憐《あわ》れに思って、 熱心に太后へ取りな…
「こんなことに出あったことはない。 風の吹くことはあっても、 前から予告的に天気が悪くなるものであるが、 こんなににわかに暴風雨になるとは」 こんなことを言いながら山荘の人々は この天候を恐ろしがっていたが雷鳴もなおやまない。 雨の脚《あし》の…
八百《やほ》よろづ 神も憐《あは》れと 思ふらん 犯せる罪の それとなければ と源氏が歌い終わった時に、 風が吹き出して空が暗くなってきた。 御禊《みそぎ》の式もまだまったく終わっていなかったが 人々は立ち騒いだ。 肱笠雨《ひじがさあめ》というもの…
今年は三月の一日に巳《み》の日があった。 「今日です、お試みなさいませ。 不幸な目にあっている者が御禊《みそぎ》をすれば 必ず効果があるといわれる日でございます」 賢がって言う者があるので、 海の近くへ また一度行ってみたいと思ってもいた源氏は…
「これは形見だと思っていただきたい」 宰相も名高い品になっている笛を一つ置いて行った。 人目に立って問題になるようなことは 双方でしなかったのである。 上って来た日に帰りを急ぎ立てられる気がして、 宰相は顧みばかりしながら座を立って行くのを、 …
朝ぼらけの空を行く雁《かり》の列があった。 源氏は、 故郷《ふるさと》を 何《いづ》れの春か 行きて見ん 羨《うらや》ましきは 帰るかりがね と言った。 宰相は出て行く気がしないで、 飽かなくに 雁の常世《とこよ》を 立ち別れ 花の都に 道やまどはん …
終夜眠らずに語って、そして二人で詩も作った。 政府の威厳を無視したとはいうものの、 宰相も事は好まないふうで、 翌朝はもう別れて行く人になった。 好意がかえってあとの物思いを作らせると言ってもよい。 杯を手にしながら 「酔悲泪灑春杯裏 《ゑひのか…
山荘の馬を幾疋《ひき》も並べて、 それもここから見える倉とか納屋とかいう物から 取り出す稲を食わせていたりするのが源氏にも客にも珍しかった。 催馬楽《さいばら》の飛鳥井《あすかい》を二人で歌ってから、 源氏の不在中の京の話を泣きもし、笑いもし…
室内の用具も簡単な物ばかりで、 起臥《きが》する部屋も 客の座から残らず見えるのである。 碁盤、双六《すごろく》の盤、 弾棊《たぎ》の具なども 田舎《いなか》風のそまつにできた物が置かれてあった。 数珠《じゅず》などがさっきまで 仏勤めがされてい…
源氏が日を暮らし侘《わ》びているころ、 須磨の謫居《たっきょ》へ左大臣家の三位中将が訪ねて来た。 現在は参議になっていて、 名門の公子でりっぱな人物であるから 世間から信頼されていることも格別なのであるが、 その人自身は今の社会の空気が気に入ら…
須磨は日の永い春になって つれづれを覚える時間が多くなった上に、 去年植えた若木の桜の花が咲き始めたのにも、 霞《かす》んだ空の色にも京が思い出されて、 源氏の泣く日が多かった。 二月二十幾日である、 去年京を出た時に心苦しかった人たちの様子が …
この娘はすぐれた容貌を持っているのではないが、 優雅な上品な女で、 見識の備わっている点などは貴族の娘にも劣らなかった。 境遇をみずから知って、 上流の男は自分を眼中にも置かないであろうし、 それかといって身分相当な男とは結婚をしようと思わない…
「なぜそうしなければならないのでしょう。 どんなにごりっぱな方でも 娘のはじめての結婚に罪があって 流されて来ていらっしゃる方を 婿にしようなどと、私はそんな気がしません。 それも愛してくださればよろしゅうございますが、 そんなことは想像もされ…
「それはたいへんまちがったお考えですよ。 あの方はりっぱな奥様を何人も持っていらっしって、 その上陛下の御愛人をお盗みになったことが問題になって 失脚をなすったのでしょう。 そんな方が田舎育ちの娘などを眼中にお置きになるものですか」 と妻は言っ…
明石の浦は這《は》ってでも行けるほどの近さであったから、 良清朝臣《よしきよあそん》は 明石の入道の娘を思い出して手紙を書いて送ったりしたが 返書は来なかった。 父親の入道から相談したいことがあるから ちょっと逢いに来てほしいと言って来た。 求…
源氏は 「胡角一声霜後夢《こかくいっせいそうごのゆめ》」と 王昭君《おうしょうくん》を歌った詩の句が口に上った。 月光が明るくて、狭い家は奥の隅々《すみずみ》まで顕《あら》わに見えた。 深夜の空が縁側の上にあった。 もう落ちるのに近い月がすごい…
近所で時々煙の立つのを、 これが海人《あま》の塩を焼く煙なのであろうと 源氏は長い間思っていたが、 それは山荘の後ろの山で柴《しば》を燻《く》べている煙であった。 これを聞いた時の作、 山がつの 庵《いほり》に 焚《た》けるしば しばも言問ひ 来な…
二条の院の姫君は時がたてばたつほど、 悲しむ度も深くなっていった。 東の対にいた女房もこちらへ移された初めは、 自尊心の多い彼女たちであるから、たいしたこともなくて、 ただ源氏が特別に心を惹かれているだけの女性であろうと 女王を考えていたが、 …
源氏の御弟の宮たちそのほか親しかった高官たちは 初めのころしきりに源氏と文通をしたものである。 人の身にしむ詩歌が取りかわされて、 それらの源氏の作が世上にほめられることは 非常に太后のお気に召さないことであった。 「勅勘を受けた人というものは…
京では月日のたつにしたがって 光源氏のない寂寥《せきりょう》を多く感じた。 陛下もそのお一人であった。 まして東宮は常に源氏を恋しく思召《おぼしめ》して、 人の見ぬ時には泣いておいでになるのを、 乳母《めのと》たちは哀れに拝見していた。 王命婦…
五節《ごせち》の君は人に隠れて源氏へ手紙を送った。 琴の音に ひきとめらるる 綱手縄《つなてなは》 たゆたふ心 君知るらめや 音楽の横好きをお笑いくださいますな。 と書かれてあるのを、 源氏は微笑しながらながめていた。 若い娘のきまり悪そうなところ…
大弐は源氏へ挨拶《あいさつ》をした。 「はるかな田舎《いなか》から上ってまいりました私は、 京へ着けばまず伺候いたしまして、 あなた様から都のお話を伺わせていただきますことを 空想したものでございました。 意外な政変のために御隠栖になっておりま…
このころに九州の長官の大弐《だいに》が上って来た。 大きな勢力を持っていて一門郎党の数が多く、 また娘たくさんな大弐ででもあったから、 婦人たちにだけ船の旅をさせた。 そして所々で陸を行く男たちと海の一行とが合流して 名所の見物をしながら来たの…
この月を入道の宮が 「霧や隔つる」とお言いになった去年の秋が恋しく、 それからそれへといろいろな場合の初恋人への思い出に心が動いて、 しまいには声を立てて源氏は泣いた。 「もうよほど更《ふ》けました」 と言う者があっても源氏は寝室へはいろうとし…
初雁《はつかり》は 恋しき人の つらなれや 旅の空飛ぶ声の悲しき と源氏が言う。 良清《よしきよ》、 かきつらね 昔のことぞ 思ほゆる 雁はそのよの友ならねども 民部大輔《みんぶたゆう》惟光《これみつ》、 心から 常世《とこよ》を捨てて 鳴く雁を 雲の…
美しい源氏と暮らしていることを無上の幸福に思って、 四、五人はいつも離れずに付き添っていた。 庭の秋草の花のいろいろに咲き乱れた夕方に、 海の見える廊のほうへ出てながめている源氏の美しさは、 あたりの物が皆 素描《あらがき》の画《え》のような寂…
自分一人のために、 親兄弟も愛人もあって離れがたい故郷に別れて漂泊の人に 彼らはなっているのであると思うと、 自分の深い物思いに落ちたりしていることは、 その上彼らを心細がらせることであろうと源氏は思って、 昼間は皆といっしょに戯談《じょうだん…
秋風が須磨の里を吹くころになった。 海は少し遠いのであるが、 須磨の関も越えるほどの秋の波が立つと行平が歌った波の音が、 夜はことに高く響いてきて、 堪えがたく寂しいものは謫居《たっきょ》の秋であった。 居間に近く宿直《とのい》している少数の者…
「今まで私に男の子のないのが寂しい。 東宮を院のお言葉どおりに 自分の子のように私は考えているのだが、 いろいろな人間が間にいて、 私の愛が徹底しないから心苦しくてならない」 などとお語りになる。 御意志によらない政治を行なう者があって、 それを…