2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧
五節の弟で若君にも丁寧に臣礼を取ってくる惟光の子に、 ある日逢った若君は平生以上に親しく話してやったあとで言った。 「五節はいつ御所へはいるの」 「今年のうちだということです」 「顔がよかったから私はあの人が好きになった。 君は姉さんだから毎日…
【私本太平記3 第1巻 下天地蔵③〈げてんじぞう〉】🍶現執権高時の田楽好きも、狂に近いが、闘犬好みは、もっと度をこしたものである。鎌倉府内では、月十二回の上覧闘犬があり、武家やしきでさえ闘犬を養って‥
十数名の武者は、 みな小具足《こぐそく》の旅姿だった。 といってもあらましは、 足軽程度の人態《にんてい》にすぎない。 争いあって、一碗ずつの酒を持ち、 干魚か何かを取ってはムシャムシャ食う。 そしてやや腹の虫がおさまり出すと、 こんどは野卑な戯…
信連を信達と間違えております。信連合戦が正しいです 御所の三条大路に面した門、 高倉通りへの門もすべて開け放して、 信連一人悠然と敵を待っていた。 この夜の信連の装束は、 萌黄匂《もえぎにおい》の腹巻をつけ、 上には薄青の狩衣《かりぎぬ》、 腰に…
五節の舞い姫は皆とどまって 宮中の奉仕をするようとの仰せであったが、 いったんは皆退出させて、 近江守《おうみのかみ》のは唐崎《からさき》、 摂津守の子は浪速で祓いをさせたいと願って自宅へ帰った。 大納言も別の形式で宮仕えに差し上げることを奏上…
【私本太平記 2 第1巻 下天地蔵②〈げてんじぞう〉】🍶顎の強い線や、長すぎるほど長い眉毛、大きな鼻梁がどこかのんびり間のびしている所など、西の顔でもなし、京顔でもない。坂東者に多い特有な骨柄なのだ。
「ああ、よいここちだった。 右馬介、よほど長く眠ったのか、わしは」 又太郎は伸びをした。 その手が、ついでに、曲がっていた烏帽子を直した。 やっと現《うつつ》に返った眼でもある。 その眼もとには、人をひき込まずにいない何かがあった。 魔魅《まみ…
信連を信達と間違えております。信連合戦が正しいです この日五月十五日、満月である。 三条の御所で高倉宮は、 雲間にかくれ移る皓々《こうこう》たる月を眺めていた。 遥か東国に下した密使の行方、 そして源氏勢の反応、 あるいは俄かに可能性をおびて 身…
源氏も参内して陪観したが、 五節の舞い姫の少女が目にとまった昔を思い出した。 辰の日の夕方に大弐《だいに》の五節へ源氏は手紙を書いた。 内容が想像されないでもない。 少女子《をとめご》も さびぬらし 天つ袖 ふるき世の友 よはひ経ぬれば 五節は今日…
浅葱《あさぎ》の袍《ほう》を着て行くことがいやで、 若君は御所へ行くこともしなかったが、 五節を機会に、 好みの色の直衣《のうし》を着て宮中へ出入りすることを 若君は許されたので、その夜から御所へも行った。 まだ小柄な美少年は、 若公達《わかき…
【平家物語85 第4巻 いたちの沙汰】鳥羽殿の中で鼬《いたち》がおびただしく走り騒いだ。常にないことである。法皇は何の兆《きざし》かと自ら占われて、近江守仲兼《おうみのかみなかかね》を御前に呼ばれた。
さて、後白河法皇は、 成親、俊寛のように自分も遠い国、 遥かな小島に流されるのではなかろうかと、 お考えになっていたが、 そういうこともないまま鳥羽殿に 治承四年までお暮しになっていた。 この年の五月十二日の正午《ひる》ごろ、 鳥羽殿の中で鼬《い…
まだ除夜の鐘には、すこし間がある。 とまれ、今年も大晦日《おおつごもり》まで無事に暮れた。 だが、あしたからの来る年は。 洛中の耳も、大極殿《だいごくでん》のたたずまいも、 やがての鐘を、 偉大な予言者の声にでも触《ふ》れるように、 霜白々と、…
このころ、熊野別当|湛増《たんぞう》は、 平家の重恩を受けていたが、 どこからこの令旨のことをもれ聞いたのか、 「新宮の十郎義盛は高倉宮の令旨を抱いて、 すでに謀叛を起さんとしている。 那智、新宮の者どもは、 定めし源氏の味方をするであろうが、 …
大学生の若君は失恋の悲しみに胸が閉じられて、 何にも興味が持てないほど心がめいって、 書物も読む気のしないほどの気分が いくぶん慰められるかもしれぬと、 五節の夜は二条の院に行っていた。 風采《ふうさい》がよくて落ち着いた、 艶《えん》な姿の少…
【平家物語83 第4巻 源氏そろえ③】頼政の弁は熱を帯びる「宮が思し召し給うて令旨を下されるなら、雌伏する諸国の源氏は令旨を奉じて 夜を日についで京に馳せ参ずるは必定、平家滅亡に時日は要しますまい‥」
頼政の弁は熱をおびてきた。 あたかも諸国に兵を蓄えてひそむ源氏の網の目に、 平家がしぼられて行くような感さえ、 宮に与えたかも知れぬ。 頼政は語調を変えてつづけた。 「われら源家のもの、朝敵を武力で平らげ、 宿望を達した点においては、平家に一向…
舞の稽古《けいこ》などは自宅でよく習わせて、 舞姫を直接世話するいわゆるかしずきの幾人だけは その家で選んだのをつけて、 初めの日の夕方ごろに二条の院へ送った。 なお童女幾人、 下《しも》仕え幾人が付き添いに必要なのであるから、 二条の院、東の…
謀叛成功への現実的証拠ともいうべき 反平家勢力の人名表である。 「まず、この京にかくれて平家をうかがうもの、 出羽前司光信《でわのぜんじみつのぶ》の子、 伊賀守光基《いがのかみみつもと》、 出羽|判官光長《はんがんみつなが》、 出羽|蔵人光茂《…
そのころ、後白河法皇の第二皇子、 以仁《もちひと》親王は、 三条の高倉に住んでいたので高倉宮とよばれていた。 彼は十五歳の年に、近衛河原の大宮の御所で、 世を忍ぶように、ひっそり元服した。 宮は才芸、人に勝れ、ご筆跡もまことにうるわしく、 側近…
今年源氏は五節《ごせち》の舞い姫を一人出すのであった。 たいした仕度《したく》というものではないが、 付き添いの童女の衣裳《いしょう》などを 日が近づくので用意させていた。 東の院の花散里《はなちるさと》夫人は、 舞い姫の宮中へはいる夜の、 付…
まだ除夜の鐘には、すこし間がある。 とまれ、ことしも大晦日《おおつごもり》まで無事に暮れた。 だが、あしたからの来る年は。 洛中の耳も、大極殿《だいごくでん》のたたずまいも、 やがての鐘を、偉大な予言者の声にでも触《ふ》れるように、 霜白々と、…
高倉上皇が厳島にお着きになったのは、 三月二十六日、 清盛入道相国が最も寵愛した内侍の家が仮御所となり、 なか二日の滞在中には、 読経の会と舞楽がにぎやかに行なわれた。 満願の日、 導師三井寺の公顕《こうげん》僧正は高座にのぼり、 鐘を鳴らして表…
翌十九日、 大宮大納言 隆季《たかすえ》の徹宵の準備で 御幸はつつがなく行なわれた。 三月も半ばを過ぎている。 霞に曇る有明の月おぼろな空の下、御幸の一行は、 地に淡い影を落しながら鳥羽殿へ向った。 鳥の声、空を渡るのを見上げれば、 遥か北陸を目…
「そらあんなことを言っている。 くれなゐの 涙に深き 袖の色を 浅緑とや いひしをるべき 恥ずかしくてならない」 と言うと、 いろいろに 身のうきほどの 知らるるは いかに染めける 中の衣ぞ と雲井の雁が言ったか言わぬに、 もう大臣が家の中にはいって来…
新帝の即位は、 皇室との親族関係樹立という清盛永年の悲願をかなえさせた。 入道相国夫婦は天皇の外祖父、外祖母である。 ともに准三后《じゅんさんごう》の宣旨をうけ、 年官年爵を頂戴した。 絵や花で飾られた衣をまとった公卿たちで ごった返す入道邸は…
治承四年正月一日、法皇の鳥羽殿《とばどの》には、 人の訪れる気配もなかった。 入道相国の怒り未だとけず、 公卿たちの近づくのを許さなかったし、 法皇も清盛をはばかっておられたからである。 正月の三日間というもの、 朝賀に参上するものもいなかった…
「伯父《おじ》様の態度が恨めしいから、 恋しくても 私はあなたを忘れてしまおうと思うけれど、 逢わないでいてはどんなに苦しいだろうと 今から心配でならない。 なぜ逢えば逢うことのできたころに 私はたびたび来なかったろう」 と言う男の様子には、 若…
その頃 内裏《だいり》の主上から、 鳥羽殿にある法皇の許に、 ひそかにお便りがあった。 「かような世になりましては、 天皇の位にあっても何の意味がありましょうか? むしろ宇多法皇、花山法皇の例にもならい、 出家して山林流浪の行者にでもなろうかと思…
治承三年十一月二十日、 清盛の軍勢は法皇の御所を取り囲んだ。 「平治の乱の時と同じように、御所を焼打ちするそうだ」 という流言が広がって、 御所の中は、上を下への大騒ぎとなった。 その混乱のさなかに、 平宗盛が車をかって御所へやってきた。 「急い…
若君の乳母の宰相の君が出て来て、 「若様とごいっしょの御主人様だと ただ今まで思っておりましたのに行っておしまいになるなどとは 残念なことでございます。 殿様がほかの方と御結婚をおさせになろうとあそばしましても、 お従いにならぬようにあそばせ」…
関白基房の家来、江大夫判官遠成 《ごうたいふはんがんとおなり》という者がいた。 日頃から平家には反感を抱いていたが、 六波羅からの追手が迫ると聞き、 息子 江左衛門尉家成《ごうさえもんのじょういえなり》 といっしょに揃って家を出た。 家を出てみた…
法印からの話を聞かれた法皇は、 もうそれ以上は何事も仰有《おっしゃ》らなかった。 清盛の話を、もっともと思われたのではなく、 いっても無駄と諦めてしまわれたものらしい。 十六日になって、 突然関白基房始め四十三人の公卿殿上人に、 追放の命令が下…
大臣は、 「ちょっと御所へ参りまして、 夕方に迎えに来ようと思います」 と言って出て行った。 事実に潤色を加えて結婚をさせてもよいとは 大臣の心にも思われたのであるが、 やはり残念な気持ちが勝って、 ともかくも相当な官歴ができたころ、 娘への愛の…