第20帖 朝顔(あさがお)源氏物語
月はいよいよ澄んで美しい。夫人が、 氷とぢ 岩間の水は 行き悩み 空澄む月の 影ぞ流るる と言いながら、外を見るために少し傾けた顔が美しかった。 髪の性質《たち》、顔だちが恋しい故人の宮にそっくりな気がして、 源氏はうれしかった。 少し外に分けられ…
「尚侍《ないしのかみ》は 貴婦人の資格を十分に備えておいでになる、 軽佻《けいちょう》な気などは 少しもお見えにならないような方だのに、 あんなことのあったのが、私は不思議でならない」 「そうですよ。艶《えん》な美しい女の例には、 今でもむろん…
「昔 中宮がお庭に雪の山をお作らせになったことがある。 だれもすることだけれど、 その場合に非常にしっくりと合ったことをなさる方だった。 どんな時にもあの方がおいでになったらと、 残念に思われることが多い。 私などに対して法《のり》を越えた御待…
雪のたくさん積もった上になお雪が降っていて、 松と竹がおもしろく変わった個性を見せている夕暮れ時で、 人の美貌《びぼう》もことさら光るように思われた。 「春がよくなったり、秋がよくなったり、 始終人の好みの変わる中で、 私は冬の澄んだ月が雪の上…
「女院がお崩《かく》れになってから、 陛下が寂しそうにばかりしておいでになるのが心苦しいことだし、 太政大臣が現在では欠けているのだから、 政務は皆私が見なければならなくて、 多忙なために家《うち》へ帰らない時の多いのを、 あなたから言えば例の…
源氏はあながちにあせって結婚がしたいのではなかったが、 恋人の冷淡なのに負けてしまうのが残念でならなかった。 今日の源氏は最上の運に恵まれてはいるが、 昔よりはいろいろなことに経験を積んできていて、 今さら恋愛に没頭することの不可なことも、 世…
友情で書かれた手紙には友情で酬《むく》いることにして、 源氏が来れば人づてで話す程度のことにしたいとお思いになって、 御自身は神に奉仕していた間怠っていた仏勤めを、 取り返しうるほど 十分にできる尼になりたいとも願っておいでになるのであるが、 …
西のほうはもう格子が下《お》ろしてあったが、 迷惑がるように思われてはと斟酌《しんしゃく》して 一間二間はそのままにしてあった。 月が出て淡い雪の光といっしょになった夜の色が美しかった。 今夜は真剣なふうに恋を訴える源氏であった。 「ただ一言、…
「あのころのことは皆昔話になって、 思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、 うれしい方がおいでになりましたね。 『親なしに臥《ふ》せる旅人』と思ってください」 と言いながら、御簾のほうへからだを寄せる源氏に、 典侍《ないし…
源氏はまず宮のお居間のほうで例のように話していたが、 昔話の取りとめもないようなのが長く続いて 源氏は眠くなるばかりであった。 宮もあくびをあそばして、 「私は宵惑《よいまど》いなものですから、 お話がもうできないのですよ」 とお言いになったか…
桃園のお邸《やしき》は北側にある普通の人の出入りする門をはいるのは 自重の足りないことに見られると思って、 西の大門から人をやって案内を申し入れた。 こんな天気になったから、 先触れはあっても源氏は出かけて来ないであろうと 宮は思っておいでにな…
喪服の鈍《にび》色ではあるが 濃淡の重なりの艶《えん》な源氏の姿が 雪の光《あかり》でよく見えるのを、 寝ながらのぞいていた夫人はこの姿を見ることも 稀《まれ》な日になったらと思うと悲しかった。 前駆も親しい者ばかりを選んであったが、 「参内す…
「つれなさを 昔に懲りぬ 心こそ 人のつらさに添へてつらけれ 『心づから』 (恋しさも心づからのものなれば置き所なくもてぞ煩ふ)苦しみます」 「あまりにお気の毒でございますから」 と言って、女房らが女王に返歌をされるように勧めた。 「改めて 何かは…
さすがに出かけの声をかけに源氏は夫人の所へ来た。 「女五の宮様が御病気でいらっしゃるから お見舞いに行って来ます」 ちょっとすわってこう言う源氏のほうを、 夫人は見ようともせずに姫君の相手をしていたが、 不快な気持ちはよく見えた。 「始終このご…
冬の初めになって今年は神事がいっさい停止されていて寂しい。 つれづれな源氏はまた五の宮を訪ねに行こうとした。 雪もちらちらと降って艶《えん》な夕方に、 少し着て柔らかになった小袖《こそで》に なお薫物《たきもの》を多くしたり、 化粧に時間を費や…
顧みられないというようなことはなくても、 源氏が重んじる妻は他の人で、自分は少女時代から養ってきた、 どんな薄遇をしても 甘んじているはずの妻にすぎないことになるのであろうと、 こんなことを思って夫人は煩悶《はんもん》しているが、 たいしたこと…
初めの態度はどこまでもお続けになる朝顔の女王の 普通の型でない点が、 珍重すべきおもしろいことにも思われてならない源氏であった。 世間はもうその噂《うわさ》をして、 「源氏の大臣は前斎院に御熱心でいられるから、 女五の宮へ御親切もお尽くしになる…
今になってまた若々しい恋の手紙を人に送るようなことも 似合わしくないことであると源氏は思いながらも、 昔から好意も友情もその人に持たれながら、 恋の成り立つまでにはならなかったのを思うと、 もうあとへは退《ひ》けない気になっていて、 再び情火を…
不満足な気持ちで帰って行った源氏は ましてその夜が眠れなかった。 早く格子を上げさせて源氏は庭の朝霧をながめていた。 枯れた花の中に朝顔が 左右の草にまつわりながらあるかないかに咲いて、 しかも香さえも放つ花を折らせた源氏は、 前斎院へそれを贈…
なべて世の 哀ればかりを 問ふからに 誓ひしことを 神やいさめん と斎院のお歌が伝えられる。 「そんなことをおとがめになるのですか。 その時代の罪は皆 科戸《しなど》の風に追 ってもらったはずです」 源氏の愛嬌《あいきょう》はこぼれるようであった。 …
【源氏物語625 第20帖 朝顔7】「今はもう神に託しておのがれになることもできないはずです。私が不幸な目にあっていた時以来の苦しみの記録の片端でもお聞きください」源氏は朝顔の姫君に会いたいと伝える。
「今になりまして、 お居間の御簾の前などにお席をいただくことかと 私はちょっと戸惑いがされます。 どんなに長い年月にわたって 私は志を申し続けてきたことでしょう。 その労に酬《むく》いられて、 お居間へ伺うくらいのことは 許されていいかと信じてき…
「お姉様の三の宮がおうらやましい。 あなたのお子さんを孫にしておられる御縁で 始終あなたにお逢いしておられるのだからね。 ここのお亡くなりになった宮様もその思召しだけがあって、 実現できなかったことで歎息《たんそく》を あそばしたことがよくある…
女王のお住まいになっているほうの庭を遠く見ると、 枯れ枯れになった花草もなお魅力を持つもののように思われて、 それを静かな気分でながめていられる麗人が直ちに想像され、 源氏は恋しかった。 逢いたい心のおさえられないままに、 「こちらへ伺いました…
また続けて、 「ますますきれいですね。 子供でいらっしった時にはじめてあなたを見て、 こんな人も生まれてくるものだろうかとびっくりしましたね。 それからもお目にかかるたびに あなたのきれいなのに驚いてばかりいましたよ。 今の陛下があなたによく似…
ずいぶん老人《としより》めいておしまいになったと思いながらも 源氏は畏《かしこ》まって申し上げた。 「院がお崩《かく》れになりまして以来、 すべてのことが 同じこの世のことと思われませんような変わり方で、 思いがけぬ所罰も受けまして、 遠国に漂…
同じ御殿の西と東に分かれて、 老内親王と若い前斎院とは住んでおいでになった。 式部卿《しきぶきょう》の宮がお薨《かく》れになって 何ほどの時がたっているのでもないが、 もう宮のうちには荒れた色が漂っていて、 しんみりとした空気があった。 女五の…
斎院は父宮の喪のために職をお辞しになった。 源氏は例のように古い恋も忘れることのできぬ癖で、 始終手紙を送っているのであったが、 斎院御在職時代に迷惑をされた噂の相手である人に、 女王は打ち解けた返事をお書きになることもなかった。 九月になって…
源氏物語【第20帖 朝顔 Asagao】 光源氏32歳の秋から冬の話。 藤壺の死去と同じ頃、源氏の叔父である桃園式部卿宮が死去したので、 その娘、朝顔は賀茂斎院を退いて邸にこもっていた。 若い頃から朝顔に執着していた源氏は、 朝顔と同居する叔母女五の宮の見…