第十三帖 明石(あかし)源氏物語
風流がりな男であると思いながら源氏は 直衣《のうし》をきれいに着かえて、 夜がふけてから出かけた。 よい車も用意されてあったが、 目だたせぬために馬で行くのである。 惟光などばかりの一人二人の供をつれただけである。 山手の家はやや遠く離れていた…
大弐《だいに》の娘の五節《ごせち》は、 一人でしていた心の苦も解消したように喜んで、 どこからとも言わせない使いを出して、 二条の院へ歌を置かせた。 須磨の浦に 心を寄せし 船人の やがて朽《く》たせる 袖を見せばや 字は以前よりずっと上手になって…
源氏は明石から送って来た使いに手紙を持たせて帰した。 夫人にはばかりながらこまやかな情を女に書き送ったのである。 毎夜毎夜悲しく思っているのですか、 歎きつつ 明石の浦に 朝霧の 立つやと人を 思ひやるかな こんな内容であった。 Wind of Travelers …
源氏は院の御為《おんため》に 法華経《ほけきょう》の八講を行なう準備をさせていた。 東宮にお目にかかると、 ずっとお身大きくなっておいでになって、 珍しい源氏の出仕をお喜びになるのを、 限りもなくおかわいそうに源氏は思った。 学問もよくおできに…
しめやかにお話をあそばすうちに夜になった。 十五夜の月の美しく静かなもとで 昔をお忍びになって帝はお心をしめらせておいでになった。 お心細い御様子である。 「音楽をやらせることも近ごろはない。 あなたの琴の音もずいぶん長く聞かなんだね」 と仰せ…
間もなく源氏は本官に復した上、 権大納言《ごんだいなごん》も兼ねる辞令を得た。 侍臣たちの官位もそれぞれ元にかえされたのである。 枯れた木に春の芽が出たようなめでたいことである。 お召しがあって源氏は参内した。 お常御殿に上がると、 源氏のさら…
源氏は夫人に明石の君のことを話した。 女王はどう感じたか、 恨みを言うともなしに「身をば思はず」百人一首 38番 右近の和歌 (忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな) などとはかなそうに言っているのを、 美しいとも可憐《かれん》であ…
紫夫人も生きがいなく思っていた命が、 今日まであって、 源氏を迎ええたことに満足したことであろうと思われる。 美しかった人のさらに完成された姿を 二年半の時間ののちに源氏は見ることができたのである。 寂しく暮らした間に、あまりに多かった髪の量の…
源氏は浪速《なにわ》に船を着けて、 そこで祓《はら》いをした。 住吉の神へも無事に帰洛《きらく》の日の来た報告をして、 幾つかの願《がん》を実行しようと思う意志のあることも 使いに言わせた。 自身は参詣《さんけい》しなかった。 途中の見物なども…
「どうしてこんなに苦労の多い結婚をさせたろう。 固意地《かたいじ》な方の言いなりに 私までもがついて行ったのがまちがいだった」 と夫人は歎息《たんそく》していた。 「うるさい、 これきりにあそばされないことも残っているのだから、 お考えがあるに…
妻と乳母《めのと》とが口々に入道を批難した。 「お嬢様を御幸福な方にしてお見上げしたいと、 どんなに長い間祈って来たことでしょう。 いよいよそれが実現されますことかと存じておりましたのに、 お気の毒な御経験をあそばすことになったのでございます…
それきり起居《たちい》もよろよろとするふうである。 明石の君の心は悲しみに満たされていた。 外へは現わすまいとするのであるが、 自身の薄倖《はっこう》であることが悲しみの根本になっていて、 捨てて行く恨めしい源氏が また恋しい面影になって見える…
世をうみに ここらしほじむ 身となりて なほこの岸を えこそ離れね 子供への申しわけにせめて国境まではお供をさせていただきます」 と入道は言ってから、 「出すぎた申し分でございますが、 思い出しておやりくださいます時がございましたら 御音信をいただ…
「せっかくよこしたのだから」 と言いながらそれに着かえた。 今まで着ていた衣服は女の所へやった。 思い出させる恋の技巧というものである。 自身のにおいの沁《し》んだ着物が どれだけ有効な物であるかを源氏はよく知っていた。 「もう捨てました世の中…
女の関係を知らない人々はこんな住居《すまい》も、 一年以上いられて別れて行く時は 名残があれほど惜しまれるものなのであろうと単純に同情していた。 良清などはよほどお気に入った女なのであろうと憎く思った。 侍臣たちは心中のうれしさをおさえて、 今…
言うともなくこう言うのを、源氏は恨んで、 逢《あ》ふまでの かたみに契る 中の緒《を》の しらべはことに 変はらざらなん と言ったが、 なおこの琴の調子が狂わない間に必ず逢おうとも言いなだめていた。 信頼はしていても目の前の別れがただただ女には悲…
源氏のような音楽の天才である人が、 はじめて味わう妙味であると思うような手もあった。 飽満するまでには聞かせずにやめてしまったのであるが、 源氏はなぜ今日までにしいても弾かせなかったかと残念でならない。 熱情をこめた言葉で源氏はいろいろに将来…
深夜の澄んだ気の中であったから、非常に美しく聞こえた。 入道は感動して、 娘へも促すように自身で十三絃の琴を 几帳《きちょう》の中へ差し入れた。 女もとめどなく流れる涙に誘われたように、低い音で弾き出した。 きわめて上手である。 入道の宮の十三…
このたびは 立ち別るとも 藻塩《もしほ》焼く 煙は同じ 方《かた》になびかん と源氏が言うと、 かきつめて 海人《あま》の焼く藻《も》の 思ひにも 今はかひなき 恨みだにせじ とだけ言って、 可憐《かれん》なふうに泣いていて 多くは言わないのであるが、…
あふれるような愛を持って、 涙ぐみながら将来の約束を女にする源氏を見ては、 これだけの幸福をうければもうこの上を願わないで あきらめることもできるはずであると思われるのであるが、 女は源氏が美しければ美しいだけ 自身の価値の低さが思われて悲しい…
出発が明後日に近づいた夜、 いつもよりは早く山手の家へ源氏は出かけた。 まだはっきりとは今日までよく見なかった女は、 貴女《きじょ》らしい気高《けだか》い様子が見えて、 この身分にふさわしくない端麗さが備わっていた。 捨てて行きがたい気がして、…
女との関係を知っている者は、 「反感が起こるよ。例のお癖だね」 と言って、困ったことだと思っていた。 源氏が長い間この関係を秘密にしていて、 人目を紛らして通っていたことが 近ごろになって人々にわかったのであったから、 「女からいえば一生の物思…
女はもとより思い乱れていた。 もっともなことである。 思いがけぬ旅に 京は捨てても また帰る日のないことなどは 源氏の思わなかったことであった。 慰める所がそれにはあった。 今度は幸福な都へ帰るのであって、 この土地との縁はこれで終わると見ねばな…
入道も当然であると思いながらも、 胸に蓋《ふた》がされたほど悲しい気持ちもするのであったが、 源氏が都合よく栄えねば 自分のかねての理想は実現されないのであるからと思い直した。 その時分は毎夜 山手の家へ通う源氏であった。 今年の六月ごろから女…
去年から太后も物怪《もののけ》のために病んでおいでになり、 そのほか天の諭《さと》しめいたことが しきりに起こることでもあったし、 祈祷と御 精進で一時およろしかった御眼疾も またこのごろお悪くばかりなっていくことに心細く思召して、 七月二十幾…
春になったが帝《みかど》に御悩《ごのう》があって 世間も静かでない。 当帝の御子は右大臣の女《むすめ》の 承香殿《じょうきょうでん》の女御《にょご》の腹に皇子があった。 それはやっとお二つの方であったから 当然東宮へ御位《みくらい》はお譲りにな…
出立の日の饗応《きょうおう》を入道は派手に設けた。 全体の人へ餞別《せんべつ》に りっぱな旅装一揃《そろ》いずつを出すこともした。 いつの間にこの用意がされたのであるかと驚くばかりであった。 源氏の衣服はもとより質を精選して調製してあった。 幾…
源氏はいろいろに絵を描《か》いて、 その時々の心を文章にしてつけていった。 京の人に訴える気持ちで描いているのである。 女王の返辞が この絵巻から得られる期待で作られているのであった。 感傷的な文学および絵画としてすぐれた作品である。 どうして…
源氏の愛は月日とともに深くなっていくのであるが、 最愛の夫人が一人京に残っていて、 今の女の関係をいろいろに想像すれば 恨めしい心が動くことであろうと思われる苦しさから、 浜の館《やかた》のほうで一人寝をする夜のほうが多かった。 悲哀 written b…
源氏のような音楽の天才である人が、 はじめて味わう妙味であると思うような手もあった。 飽満するまでには聞かせずにやめてしまったのであるが、 源氏はなぜ今日までにしいても弾かせなかったかと残念でならない。 熱情をこめた言葉で源氏はいろいろに将来…