【🌺太平記】〜The Taiheiki 私本太平記 吉川英治🍀
【源氏物語803 第26帖 常夏14完】近江の君は、甘いにおいの薫香を熱心に着物へ焚き込む。紅を赤々とつけて、髪をきれいになでつけた姿にはにぎやかな愛嬌があった、女御との会談にどんな失態をすることか。
葦垣《あしがき》のまぢかきほどに侍《はべ》らひながら、 今まで影踏むばかりのしるしも侍らぬは、 なこその関をや据《す》ゑさせ給ひつらんとなん。 知らねども武蔵野《むさしの》といへばかしこけれど、 あなかしこやかしこや。 点の多い書き方で、裏には…
淀川舟で見かけた一朝臣の姿も、 伊吹のばさら大名の言なども、 顧みれば、なにか偶然めいた感である。 それが一世の指向とは俄にも信じ難い。 さればとて、現朝廷が、 これまでのごとき無気力な朝廷でないことだけは、 確かだった。 ——またいま、堂上に流行…
【私本太平記43 第1巻 藤夜叉⑨】「母の仰せどおり、わしは観て来た。井の中の蛙が世間の端をのぞいたほどな旅かも知れぬが」彼は自負する。この旅が無為でなく、大いに学び得た旅だったとは、信じているのだ。
旅の風はまたふたたび、 馬上の高氏の鬢面《びんづら》をソヨソヨ後ろへ流れてゆく。 その朝、彼は伊吹を立っていた。 別れぎわには、佐々木道誉以下、土岐左近らも、 とにかく表面ねんごろに別辞をつくした。 わけて、道誉は、 「きっと、御再会の日をお待…
責められているかの如く、 ——なにを泣く。 高氏は刺々《とげとげ》と心でののしる。 あッちへ行け。 消えてなくなれ。 しかし、 それはじぶんの慚愧《ざんき》へ向って言ったことばでもある。 彼の過失が、 そのまま藤夜叉にも同等な過失だったと言いきれる…
「……そなた、下野国の御厨にいたことはないか」 「いいえ」 「御厨ノ牧にいたことも」 「ありません」 「では、生国は」 「越前とだけ聞かされておりますが」 「越前」 と、息をひいて。 「じゃあ違っていたか。 余りにも、そなたが牧長の娘とよう似ていたゆ…
彼のひとみは、そればかりでないものを見た。 ここには、彼以前に、もひとり人影がたたずんでいた。 いや、その者も木の根か何かにこしかけていたのらしいが、 すぐその辺まで来た高氏の影が ふいに崩れるような恰好でうずくまってしまったのを見ると、 それ…
高氏もこれまでに女性の体を知らないのではなかった。 多分に未開な下野国《しもつけ》地方では、 上下共に楽しみといえば 自然飲み食いか男女の関係にかぎられている。 筑波の歌垣《うたがき》に似た上代の遺風が 今なお祭りの晩には行われるほどだった。 …
たぶんもう夜なか過ぎか。 田楽狂言も終って、あれからべつの墨絵の広間で宴となり、 やがて役者たちをも座に加えて ばさらな残夜《ざんや》を飲み更《ふ》かしたのも、 ずいぶん長かった覚えがある。 「……むりもない」 と高氏は自分へつぶやく。 その足もと…
遠いむかし。地方の民が、 大蔵省へ馬で貢税《みつぎ》を運び入れながら 唄った国々の歌が 催馬楽《さいばら》となったといわれるが、 田楽ももとは農土行事の田植え囃子《ばやし》だった。 それがやがて、都人士《とじんし》の宴席に興じられ、 ついには近…
【私本太平記36 藤夜叉②】田楽役者の玉虫色に光る衣裳も、田楽女の白粉顔も、かえって夢幻をあざらかにし、われひと共にひとしい時代の抱く哀歓と、それが求める救いの滑稽とを、一種の妖気のように醸していた。
女は、高氏の曲もない飲みぶりに、 その杯を愛惜《いとし》んで、 「小殿、おながれを」 と媚《こ》びて、ねだッた。 そして、彼の浮かない横顔と舞台の方とを等分に見つつ。 「小殿も田楽はお好きなのでございましょう」 「む。きらいでもない」 「さして、…
——夜《よ》は夜《よる》を新たにして。 と昼間、道誉が言った。 いかにもばさらないい方で彼らしい言と思われたが、 約束のごとくその晩、 城内の的場から武者廂までを容れた俄舞台と桟敷で、 新座の花夜叉一座の、田楽見物が行われた。 もちろん、高氏を主…
騎旅は、はかどった。 丹波を去ったのは、先おととい。 ゆうべは近江愛知川《えちがわ》ノ宿《しゅく》だった。 そして今日も、春の日長にかけて行けば、 美濃との境、磨針峠《すりばりとうげ》の上ぐらいまでは、 脚をのばせぬこともないと、 馬上、舂《う…
「御念までもない。しかし御不安なれば、聞かずとも」 「いや、申さいでは天意にそむく。足利殿も天皇領の御住人。 ……そこはかとなく、待てる時節が来ているとは思しめさぬか」 「どういう時節が」 「これはまた、あっぱれな、おとぼけ顔ではある」 打ッちゃ…
「この道誉とて、鎌倉の恩寵をうけた一人、 なにも世変《せいへん》を好むものではないが、 かなしいかな、天運循環の時いたるか、 北条殿の世もはや末かと見すかさるる。 高時公御一代と申しあげたいが、ここ数年も、こころもとない」 道誉の眸は、高氏の眸…
この時代にはまだ後世のいわゆる茶道などは生れてない。 けれど喫茶の風は、ぼつぼつ、拡まりかけていたのである。 禅僧の手で漢土から渡来した始めのころは、 禅堂や貴人のあいだに、養生薬のように、 そっと愛飲されていたにすぎなかったが、 近ごろでは “…
まだ除夜の鐘には、すこし間がある。 とまれ、今年も大晦日《おおつごもり》まで無事に暮れた。 だが、あしたからの来る年は。 洛中の耳も、大極殿《だいごくでん》のたたずまいも、 やがての鐘を、 偉大な予言者の声にでも触《ふ》れるように、 霜白々と、…
あいにく、正月三日の空は、薄曇りだった。 そして折々は映《さ》す日光が、 北山の遠い雪を、ふと瞼にまばゆがらせた。 ——天皇の鸞輿《らんよ》は、もう今しがた、 二条の里内裏《さとだいり》をお立ち出でと、 沿道ではつたえていた。 行幸《ぎょうこう》…
まだ除夜の鐘には、すこし間がある。 とまれ、今年も大晦日《おおつごもり》まで無事に暮れた。 だが、あしたからの来る年は。 洛中の耳も、大極殿《だいごくでん》のたたずまいも、 やがての鐘を、 偉大な予言者の声にでも触《ふ》れるように、 霜白々と、…
——ははあ。 かかる態の人物の生き方やら嗜好をさしていうものか。 又太郎はふと思いついた。 ちかごろ“婆娑羅《ばさら》”という流行語をしきりに聞く。 おそらくは、 田楽役者の軽口などから流行《はや》り出したものであろうが、 「ばさらな装い」とか。「…
春昼《しゅんちゅう》、酒はよくまわる。 又太郎もつよいたちだが、佐々木にも大酒の風がある。 城内の大庭には、紅梅白梅が妍をきそい、 ここには杯交のうちに気をうかがい合う両高氏の笑いがつきない。 はからずも、 これこそ“婆娑羅”な酒《さか》もり景色…
「さすが花奢《かしゃ》だな、右馬介」 「おなじ守護大名ながら、 下野国の御家風と、ここの佐々木屋形では」 「まさに、月とすっぽん」 ——翌朝、起き出てみると、 総曲輪《そうぐるわ》は砦《とりで》づくりらしいが、 内の殿楼、庭園の数寄《すき》など、 …
ところで“名のり”を高氏と称する当の人物というのは、 その江北京極家の当主であった。 つまりこの地方の守護大名、 佐々木佐渡ノ判官《ほうがん》高氏殿こそがその人なので……と、 土岐左近は、 一応の紹介の辞でもすましたような、したり顔で 「足利家も源…
「や。……さっきの武者が」 「なに。あの群れの中に」 「見えまする。しかも、何やら佇《たたず》み合って」 犬上郡 の野路をすぎ、 不知哉《いさや》川を行くてに見出したときである。 華やかな旅装の一と群れが河原に立ちよどんで、 頻りとこっちを振向いて…
動画のオープニングは私本太平記24が正しいです 「……さ。いま伺えば、 その若公卿が召連れていた侍童の名は、菊王とか」 「たしか菊王と呼んだと思う」 「ならばそれも、天皇に近う仕えまつる近習の御一名、 前《さき》の大内記、日野蔵人俊基朝臣 《ひのく…
「やっ、もしや?」 とつぜん、馬上の者が、 土にぽんと音をさせて降り立ったので、 それには主従も、何事かと、 怪訝《いぶか》りを持たないわけにゆかなかった。 「おう、間違いはない」と、 武士は又太郎の前へひざまずいた。 そしてもいちど、松明の下か…
人気ブログランキング ——およそ足利家の者にとっては、 先々代の主君家時の話というのは禁句だった。 なぜならば、絶対に公表できない原因で、 しかもまだ三十代に、 あえなく自殺した君だからである。 ところが。 ——その家時の血書の“置文”(遺書)というも…
騎旅《きりょ》は、はかどった。 丹波を去ったのは、先おととい。 ゆうべは近江《おうみ》愛知川《えちがわ》ノ宿《しゅく》だった。 そして今日も、春の日長にかけて行けば、 美濃との境、磨針峠《すりばりとうげ》の上ぐらいまでは、 脚をのばせぬこともな…
【私本太平記22 第1巻 大きな御手14〈みて〉】しずかな姿には、 どことなく、武人の骨ぐみが出来ている。 少しも体に隙がない。 公卿が 日頃に武技の鍛錬もしているという世は いったい何を語るものか。
「さても、あのあと、どうなったかな?」 「最前の舟の出来事で」 「さればよ。あの若公卿の演舌など、 もすこし聞いていたかった。惜しいことを」 「まことに、 異態《いてい》な長袖《ちょうしゅう》でございましたな。 公卿と申せば、ただなよかに、 世事…
「——いま汝らの怨《えん》じた上の者とは、 みな武家であろうがの。 よいか、守護、地頭、その余の役人、 武家ならざるはない今の天下ぞ。 ——その上にもいて、 賄賂取りの大曲者《おおくせもの》はそも誰と思うか。 聞けよ皆の者」 彼の演舌は、若雑輩のみが…
【私本太平記20 第1巻 大きな御手12 みて】役人は、賄賂の取り放題、坊主は強訴と我欲のほかはねえ金襴の化け物だ。地頭は年貢いじめにもすぐ太刀の反りを見せ、妾囲いと田楽踊りをいいことにしていやアがる
こう機嫌を直すと、 彼らは衆の中では最も衆を明るくする特性を持っていた。 ——一時はどうなることかと恐れ、 また彼らの体臭に近づきかねていた男女も、 みるみるうちに、彼らのとぼけや冗談に巻きこまれて、 舟は和気藹々《あいあい》な囀《さえず》りを乗…