遠いむかし。地方の民が、
大蔵省へ馬で貢税《みつぎ》を運び入れながら
唄った国々の歌が
催馬楽《さいばら》となったといわれるが、
田楽ももとは農土行事の田植え囃子《ばやし》だった。
それがやがて、都人士《とじんし》の宴席に興じられ、
ついには近ごろの如く、
本座、新座などの職業役者をも生むような流行にまでなって来たものだとか。
「……東《あづま》より……昨日来たれば……妻《め》も持たず」
興にそそられた高氏が、
ふと、膝がしらを鼓として、指と小声で、踊りの曲を真似てると、
となりの遊女も、その流し眼に媚びを凝らして、おなじ節で。
「……着たる紺の……狩襖《かりあを》は要《い》らじ
……聟《むこ》とせむ、聟とせむ」
「ほほほほ。小殿も決しておきらいではございませんのね」
「酒か」
「いいえ、田楽」
「酔うにつれて、いつか舞台も面白う見えてきた。
先頃、七条河原の掛小屋で見たのもこの花夜叉の新座であったが、
何で人々が、さまで持《も》て囃《はや》すのかと、ふしぎであったが」
「いずれは、小殿のお国でも、鎌倉にも負けぬほどな
田楽|流行《ばや》りを見ることかもしれませぬ」
「いや、いかに好んでも、
執権どののようにはなりたくないものだ。
あのような田楽魔《でんがくま》には」
はっと、自分の酔に驚いて。
「なにをいったかな、わしは、今」
「ホホホホ。べつに御仔細は」
「オ、それよ。いま舞台から消えた役者が花夜叉か」
「いえ、鷺夜叉《さぎやしゃ》でございました」
「新座はみな“夜叉名《やしゃな》”を名のるのが風とみゆる」
「ええ。さいぜん小殿が呼吸《いき》もなされずお眼をこらしていた
愛らしい田楽女も」
「あれは、藤夜叉とか」
「藤夜叉だけは、すぐお覚えなされましたのう」
「可憐だった。振り鼓を両の手にして舞った姿の」
「まだ十六とか聞きますが」
「よう知っておる」
「京、大和に次いでは、近江田楽。
……ですから、ここの御領下には、田楽衆が一と村なしておりまする。
親の花夜叉も、むすめの藤夜叉も、近江の衆でございますし」
「そなたもか。そなたの遊女名は」
「鳰《にお》といいまする」
「鳰ノ君か」
口にした杯を、彼は彼女の唇へ持ってゆきかけた。
が、あなたの道誉と左近の眼が、チラとこっちを見た気がしたので、
あわててそれは思いとまった。
舞台ではそのとき、老練な田楽法師が現れて、
宇治拾遺《うじしゅうい》から取った“ふぐり神楽《かぐら》”を演じて、
満場の男女を笑殺していた。
それは堀河院のみ世の事。御神楽の夜の酒もりに、
職事の公卿行綱が、袴を高くたくしあげ、細ズネを現して、
庭燎《にわび》をグルグル廻りながら、
足拍子に合せて。
「……よりよりに夜のふけて。さりさりに寒きに。
ふりちゆう睾丸《ふぐり》を、ありちゆう、あぶらむ」と、
三たび舞い歌って大喝采をはくしたというあの故事《ふるごと》を、
田楽化したものだった。
——やがて。もう終りに近いか、
次は藤夜叉の一人舞で、唄は繰返しこう聞えた。
さかづきと
鵜の食ふ魚と
くろかみは
法《のり》なきものぞ
いざ二人ねん
「…………」
高氏の眸の中で、強烈な一輪の花が、渦となり虹となって燃えた。
そしてすぐその花へ、他の田楽役者が大勢踊りからんで——
“このごろ都に流行るもの”という輪踊りになっていたが、
なお彼の網膜には、藤夜叉の舞しか残っていなかった。
「……小殿。お迎えが」
鳰に袖をひかれて、はっと気づいた。見ると、
土岐左近が後ろで立座をうながしていたし、
彼方では、道誉が自分を待っている風だった。
🌸🎼#爛漫 written by#Heitaro Ashibe
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