旅の風はまたふたたび、
馬上の高氏の鬢面《びんづら》をソヨソヨ後ろへ流れてゆく。
その朝、彼は伊吹を立っていた。
別れぎわには、佐々木道誉以下、土岐左近らも、
とにかく表面ねんごろに別辞をつくした。
わけて、道誉は、
「きっと、御再会の日をお待ちする。
その日はさらに、吉《よ》い日の下で」
ふくみのある言い方と、他日の誓いを、くりかえした。
高氏の胸には
「……また、いつかは」と呼ぶその声が、
谺《こだま》のように後ろ髪を曳いていた。
——が、それは道誉のでなく、心から心へ聞える藤夜叉の声だった。
その藤夜叉は、今朝は見えない。
——どこかで今朝はその眸を、人しれず、
牝鹿《めじか》の眼のように泣き濡らしてでもいることか。
が、口にも出せず、ただ胸のうちだった。
そして不破ノ関をこえ、関ヶ原もすぎると、
去る者うとしとか、おのずから、高氏の眉も、日頃の彼に返っていた。
「なんと右馬介、とこうして、国へ帰ると、はや二月だな」
「はい。春の遅い足利ノ庄も、みな梢につぼみを持って、
若殿のご帰国を、お待ちしておりましょうず」
「だが、伊吹の泊りは、ちと道草をくい過ぎたような」
「いや、わずか二た夜、さしたる遅れでもございますまい」
「それがなぜか、長い惰眠《だみん》にでも溺れていた気がする。
まるで長夜《ちょうや》の夢から醒めたような今日の空ではあるよ。
もう、あのような大酒は以後きっと慎もう」
「これで二度めのお誓いでございますな。どうか三度めのないように」
「帰国の後は、ゆめ、人には申すなよ」
「申しますまい」
「何事もぞ」
「はっ、何事も」
返辞は素直だが、右馬介は、にやりと笑ってみせる。
……さては、こやつ。
と、高氏も苦笑を催す。
昨夜の田楽見物からあとの仔細を、
この男、うすうす承知なのではないか。と思えば、すこし後ろめたかった。
けれど、藤夜叉との秘《ひそ》か事《ごと》も、
余人《よじん》ならぬ右馬介一人の胸にたたまれているぶんにはと、
そこは腹心の郎党のよさ、ひそかに多寡《たか》はくくられる。
ところで。
と高氏はまた、馬上の春風に想《おも》い耽《ふ》ける。
——こんどの長い遍歴でいったい自分はなにを得たろうか、と。
——あなたは井の中の蛙《かわず》です。
これは常々、母からいわれつけていたことだった。
その母はまた門出の日こうもいった。
よく世間を見ていらっしゃい。
あなたは八幡殿からの正しいお裔《すえ》。
けれどまた、野州足利ノ庄で生れたままの田舎冠者《いなかかじゃ》、
少しは他人の情や憂き目にもお会いになってみなければ……と。
そして、
手ずから縫った守り袋の地蔵菩薩を餞別《はなむけ》にくれたのだった。
が、その守り袋は、つい、藤夜叉へ与えてしまった。
「……はて、母にはすまぬことを」
彼はふと、悔いに噛まれた。
与えるにせよ、物にもよる。
なんで藤夜叉へ、あれを与えてしまったろうか。
——母は、女に与えよとて、地蔵菩薩の守り袋を、
旅の子の門出にくれたわけではなかった。
母にすまないことをしたと思う。
が高氏は、気どがめを、しいて心のすみへ押しやった。
そして自分勝手な考え方をいつかしていた。
母の願いは、わが子が多少とも世間を知って帰ることにあったのだから、
その点では決して母を裏切ってはいないのだ、と。
「母の仰せどおり、わしは観《み》て来た。
……井の中の蛙が世間の端をのぞいたほどな旅かも知れぬが」
彼は自負する。
この旅が無為でなく、大いに学び得た旅だったとは、信じているのだ。
が、さて。
時勢のうごきとか、世相の表裏とかいった対象になると、
彼の思考にはちと大きすぎた。
茫漠、つかみどころのない気もする。
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