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源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸

源氏物語&古典をはじめ、日常の生活に雅とユーモアと笑顔を贈ります🎁

【私本太平記21 第1巻 大きな御手13】新帝後醍醐の徳を、彼は称える。飢饉には、供御の物も減ぜられ、吏を督して、米価や酒の値上りを正し、施粥小屋数十ヵ所を辻々に設けて、飢民を救わせ給うたとも説く。

「——いま汝らの怨《えん》じた上の者とは、

 みな武家であろうがの。

 よいか、守護、地頭、その余の役人、

 武家ならざるはない今の天下ぞ。

 ——その上にもいて、

 賄賂取りの大曲者《おおくせもの》はそも誰と思うか。

 聞けよ皆の者」

彼の演舌は、若雑輩のみが目標ではなさそうな眸だった。

「それなん鎌倉の執権高時の内管領、

 長崎 円喜《えんき》の子、

 左衛門尉《さえもんのじょう》高資《たかすけ》と申す者よ。

 うそでない証拠も見しょう。

 きのう今日、蝦夷の津軽から兵乱の飛報が都に入っておる。

 ——因《もと》を洗えば、それも長崎高資の賄賂から起っておる」

又太郎は、きき耳すました。

 はからずも、

彼が長柄《ながら》の埠頭《ふとう》で知った風説と、

それは符節《ふせつ》が合っている。

——北方禍乱の原因を、なお、若公卿はこう説明する。

 津軽の安藤季長や同苗《どうみょう》五郎らが、

一族同士の合戦におよぶまでには、しばしば相互から、

鎌倉|政所《まんどころ》へ直々の訴えに出ていたのだが、

内管領の高資は多年にわたって、

両者のどっち側からも、わいろを取っていたのである。

 その果てが、もつれに一そう、もつれを深め、

相互、

「かくては埒《らち》もあかじ」

とばかり、

ついに陸奥《みちのく》の火の手になったものだという。

又太郎は、うなずいた。

「さてこそ、いよいよ北方の乱は確実」

彼の帰心は矢のごときものがある。

 だが、溯《のぼ》り舟は、いとど遅い。

また、若公卿の弁舌も酒気に研《と》がれて、

止《とど》まることを知らなかった。

「——かつはまた執権北条の底ぬけな驕奢《きょうしゃ》、

 賭け犬ごのみ、田楽狂い、日夜の遊興沙汰など、

 何一つ、民の困苦をかえりみはせぬ武家の幕府よ。

  ……が、それにひきかえ、

 この都では、御即位あって以来の、

 みかどの御善政ぶりを、

 汝らは皆、眼にも見てきたことであろうが」

新帝後醍醐の徳を、彼は、頌《うた》い上げるように、

ここで称える。

 前年の飢饉には、供御《くご》の物も減ぜられ、

吏を督して、米価や酒の値上りを正し、

施粥《せがゆ》小屋数十ヵ所を辻々に設けて、

飢民《きみん》を救わせ給うたとも説く。

 また、天皇親政このかた、

おちこちの新関《しんせき》は撤廃し、

記録所を興して、寺社の訴訟も親しく聴かれ、

御余暇といえ、学殖のお養い、禅の研鑽《けんさん》など、

聖天子たるの御勉強には、

大御心のたゆむお暇も仰げぬという。

——すると、大事なところで。

「お客人、山崎でお降りのお客人。

 船が着く、立たっしゃらぬか」

船頭の声に、又太郎は、われに返った。

惜しくはあったが、

かねてから主従《ふたり》は、ここで降りる予定であった。

 ここは淀川の北岸、山崎ノ郷。

古くは、河陽《かや》の離宮やら江口神崎におとらぬ灯やら、

関所もあった跡だという。

 しかし、いまは遊歴でもあるまい又太郎主従に、

何の目的があって、こんな古駅の人となったのか。

しかもあの、鷹野姿の若公卿には、

多分な好奇心も残しながら、

なぜ、せっかくな舟を途中で降りてしまったものか。

「いつか暮れたな、春の日も」

「オ。……晩鐘が鳴っておりまする」

「光明寺か、海印寺の鐘か」

「どこぞ里の旅籠《はたご》で一夜をお待ちなされますかな、

 それとも」

「いや歩こうよ。

 まだ腰糧《こしがて》(弁当)もあるし、

 疲れたら山寺の庫裡《くり》でも叩こう。

 が、右馬介は気うといか」

「いや、終日《ひねもす》の舟で、

 たくさん居眠っておきましたから、

 私もいっこう大事ございませぬ」

 西国街道を横ぎッて、

夕けむりの暗い軒端の並ぶ石ころ坂を登りぬけると、

辻には

“是より北、大枝《おおえ》越え丹波路”の道標《みちしるべ》が見え、

振返れば、さっき別れてきた大淀の流れも、

にぶい銀の延べ板みたいに暮れ残っている。

🛥️🎼遠い約束 written by こばっと

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