「——いま汝らの怨《えん》じた上の者とは、
みな武家であろうがの。
よいか、守護、地頭、その余の役人、
武家ならざるはない今の天下ぞ。
——その上にもいて、
賄賂取りの大曲者《おおくせもの》はそも誰と思うか。
聞けよ皆の者」
彼の演舌は、若雑輩のみが目標ではなさそうな眸だった。
「それなん鎌倉の執権高時の内管領、
長崎 円喜《えんき》の子、
左衛門尉《さえもんのじょう》高資《たかすけ》と申す者よ。
うそでない証拠も見しょう。
きのう今日、蝦夷の津軽から兵乱の飛報が都に入っておる。
——因《もと》を洗えば、それも長崎高資の賄賂から起っておる」
又太郎は、きき耳すました。
はからずも、
彼が長柄《ながら》の埠頭《ふとう》で知った風説と、
それは符節《ふせつ》が合っている。
——北方禍乱の原因を、なお、若公卿はこう説明する。
津軽の安藤季長や同苗《どうみょう》五郎らが、
一族同士の合戦におよぶまでには、しばしば相互から、
鎌倉|政所《まんどころ》へ直々の訴えに出ていたのだが、
内管領の高資は多年にわたって、
両者のどっち側からも、わいろを取っていたのである。
その果てが、もつれに一そう、もつれを深め、
相互、
「かくては埒《らち》もあかじ」
とばかり、
ついに陸奥《みちのく》の火の手になったものだという。
又太郎は、うなずいた。
「さてこそ、いよいよ北方の乱は確実」
彼の帰心は矢のごときものがある。
だが、溯《のぼ》り舟は、いとど遅い。
また、若公卿の弁舌も酒気に研《と》がれて、
止《とど》まることを知らなかった。
「——かつはまた執権北条の底ぬけな驕奢《きょうしゃ》、
賭け犬ごのみ、田楽狂い、日夜の遊興沙汰など、
何一つ、民の困苦をかえりみはせぬ武家の幕府よ。
……が、それにひきかえ、
この都では、御即位あって以来の、
みかどの御善政ぶりを、
汝らは皆、眼にも見てきたことであろうが」
新帝後醍醐の徳を、彼は、頌《うた》い上げるように、
ここで称える。
前年の飢饉には、供御《くご》の物も減ぜられ、
吏を督して、米価や酒の値上りを正し、
施粥《せがゆ》小屋数十ヵ所を辻々に設けて、
飢民《きみん》を救わせ給うたとも説く。
また、天皇親政このかた、
おちこちの新関《しんせき》は撤廃し、
記録所を興して、寺社の訴訟も親しく聴かれ、
御余暇といえ、学殖のお養い、禅の研鑽《けんさん》など、
聖天子たるの御勉強には、
大御心のたゆむお暇も仰げぬという。
——すると、大事なところで。
「お客人、山崎でお降りのお客人。
船が着く、立たっしゃらぬか」
船頭の声に、又太郎は、われに返った。
惜しくはあったが、
かねてから主従《ふたり》は、ここで降りる予定であった。
ここは淀川の北岸、山崎ノ郷。
古くは、河陽《かや》の離宮やら江口神崎におとらぬ灯やら、
関所もあった跡だという。
しかし、いまは遊歴でもあるまい又太郎主従に、
何の目的があって、こんな古駅の人となったのか。
しかもあの、鷹野姿の若公卿には、
多分な好奇心も残しながら、
なぜ、せっかくな舟を途中で降りてしまったものか。
「いつか暮れたな、春の日も」
「オ。……晩鐘が鳴っておりまする」
「光明寺か、海印寺の鐘か」
「どこぞ里の旅籠《はたご》で一夜をお待ちなされますかな、
それとも」
「いや歩こうよ。
まだ腰糧《こしがて》(弁当)もあるし、
疲れたら山寺の庫裡《くり》でも叩こう。
が、右馬介は気うといか」
「いや、終日《ひねもす》の舟で、
たくさん居眠っておきましたから、
私もいっこう大事ございませぬ」
西国街道を横ぎッて、
夕けむりの暗い軒端の並ぶ石ころ坂を登りぬけると、
辻には
“是より北、大枝《おおえ》越え丹波路”の道標《みちしるべ》が見え、
振返れば、さっき別れてきた大淀の流れも、
にぶい銀の延べ板みたいに暮れ残っている。
🛥️🎼遠い約束 written by こばっと
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