——およそ足利家の者にとっては、
先々代の主君家時の話というのは禁句だった。
なぜならば、絶対に公表できない原因で、
しかもまだ三十代に、
あえなく自殺した君だからである。
ところが。
——その家時の血書の“置文”(遺書)というものが、
菩提寺鑁阿寺のふかくに、
家時の霊牌とひとつに封ぜられているということを、
重なる家臣は知っている。
——で、又太郎高氏が元服報告の日にも。
「——もはや御元服なされた上は、お見せすべきだ」
という臣と。
「——いやまだ時節でない。
もっと若殿が御成人の後ならでは」
という臣と、両者二説にわかれたため、
その折にも、それはついに開かれずにしまったほど、
足利家にとっては、
なにしても重大な意味をもつ秘封でもあるらしかった。
「……そうだ、わしとしたことが、
うかと、あの日のことは忘れておった」
つぶやいて、面をふかく沈めていた又太郎は、
やがてのこと、その顔と共に、
全身も上げて突っ立った。
「出立するぞ。経家、駒の支度をいそがせろ」
「はっ」
「不覚よ、今日まで見ずに過ぎていたのは。
……帰国の上は、すぐにも、
鑁阿寺の置文をこの眼で拝見せねばならぬ」
経家も立ちかけたが、妙源と顔見あわせると、
共に姿を揃えて、又太郎の足もとに、
もいちど平伏して言った。
「自然、御披見の日が来たものと存ぜられます。
怖らくはこれも、御先代の霊のあるところ、
今日となったことも、決して遅くはございますまい」
🪷🎼#寡黙な揺り篭 written by #稿屋 隆
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