伊吹のばさら大名の言なども、
顧みれば、なにか偶然めいた感である。
それが一世の指向とは俄にも信じ難い。
さればとて、現朝廷が、
これまでのごとき無気力な朝廷でないことだけは、
確かだった。
——またいま、堂上に流行の学風や新思想が、
その目標とするところは、
幕府なき天皇一元の復古にあるのだという ささやきも、
「……さもあらんか」
と、うなずかれる。
だが、都のちまたは、酒屋繁昌やら田楽流行である。
この正月風景にしろ、そんな兆《きざ》しは、
上下どこにも見られはしない。
すでに一部の若公卿は、密勅を帯びて、
諸州を潜行しているほどにまで、事はすすんでいると、
道誉や左近らは説いたが、はたして、それもどこまでが真か。
——もし事実なら、
その彼らがあんな婆娑羅な奢《おご》りにぬくもっていること自体
すでにおかしい。
いかに北条幕府のみだれが末期症状であろうとも、
あれで、“世直し”を行《や》ろうなどは片腹いたい。
「さても、分らぬことだらけぞ」
一日ごとに、駒は、東国へ近づいていたが、
都の空へ遠ざかるほど、彼が学びえた見聞の判断にも、
視野をかえた懐疑の雲が生じていた。
旅も早や、すでに三河路《みかわじ》。
右馬介が駒をとめて。
「若殿、吉良へお立寄りなされますか」
「いや寄るまい。他日他日」
そこもよそに、通りすぎる。
三河|幡豆郡《はずぐん》地方には、
足利一族の吉良、西条、一色、今川、東条などの諸党がいた。
——が、海道もここまで来れば、富士、箱根はもう眼のさき。
はや帰心ひたぶるな高氏だった。
かくて、二月の初め。
足利ノ庄の曹司又太郎高氏は、
およそ九十日ぶりで、忍び遍歴の旅を了え、わが領国の土をふんだ。
そして、父母のいる屋形の地、
一族郎党のむらがり住む足利の町へ、
もう一歩で入ろうとする渡良瀬川を眼の前にしたときである。
思いがけないものに彼は待たれた。
——そこに屯《たむろ》していた一群の騎馬は、
たちまち高氏主従をとりかこんで、下馬を命じ、
彼に向って、執権高時の名による問罪ノ状を読みきかせた。
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