彼のひとみは、そればかりでないものを見た。
ここには、彼以前に、もひとり人影がたたずんでいた。
いや、その者も木の根か何かにこしかけていたのらしいが、
すぐその辺まで来た高氏の影が
ふいに崩れるような恰好でうずくまってしまったのを見ると、
それに驚いてか、つと起って、こっちを振向いていたものだった。
いちどは小鳥の起つような姿態《しな》をしめし、
すぐ逃げ去ろうとしたかのようであった。
——が、思い直したふうで、ふた足三足、近づいて来た。
そして恐々《こわごわ》身をすこしかがめて訊ねた。
「もし。……どうかなすったのでございますか。
どこぞおかげんでもお悪いのですか」
「…………」
高氏には、じぶんの眸がまだ信じきれない。
彼に見えていたのは
羅浮仙《らふせん》(梅の精)のような佳麗なひとだった。
「……さるべきおひとが、こんな深夜もすぎた頃、
ひとりでたたずんでいるわけはない」
彼は答えとする必要以上に、つよく頭を振って言った。
「べつに、どこも」
それから、また……
「病気などではない」
つぶやいて、指でこめかみの辺りを抑えた。
顔が青いナ、とひとりで思う。
すると彼女は、もうひとつ近づいて来て。
「どなたかと思うたら、あなた様は、こよいの御主賓の……」
そう訊かれたときは、
すでに高氏の酔眼にも正しい対象がつかまれていた。
というよりも宵から彼の心にあった映像が
突《とつ》として眼の前でものをいっている驚きに
揺り醒まされたといった方がいいかもしれぬ。
「あっ。……藤夜叉か」
「え。藤夜叉でございます」
「あれから……そなたはわしの後にでもついて来たのか」
「いいえ」
「では待ったのか。ここで」
「なんの、そのようなお約そくはしてもおりませぬ。
小殿こそ、どうなされたのでございます?」
「……わしか」
漠と眼をふさいだ。
たったいま遁《のが》れて来た鳰の白い腕《かいな》や執拗な唇が、
皮膚にも厭わしく考え出される。
高氏はいまいましげに眼をみひらいた。
そしてあの腕や唇が、
もしこの藤夜叉のものであったら……と、
その眸は思わず彼女をむさぼり眺めた。
小むすめの本能は敏感である。
あいての眼の裏に潜むものをすぐ読んでギクとふるえに襲われたらしい。
踵《かかと》は意識のない後ずさりを見せ、
なにかを守るような姿勢で両の手を交叉《あや》に、
じぶんの胸を抱きすくめた。
「藤夜叉」
高氏は跳びついた。
酒がなせる業とはいえるが、彼女の方にも、
高氏の何かに惹かれているたゆたいがあったのは是非もない。
逃げもせずただ交《か》わそうとのみして恟《すく》めた肩を、
高氏の酔いの手がもうワシづかみにつかまえていた。
「恐いのか、この身が」
「い、いいえ」
「なぜ逃げる」
「逃げはいたしませぬ」
「でも、おののいている」
「……あなた様だって、まっ青なお顔をしていらっしゃいます。
まるで仮面《めん》のような」
「酒のせいだ。いや酒だけでもない」
高氏はじぶんを呪《のろ》うような語気で
——「こよいに限って、こんな深酔いしたのも、
藤夜叉、そなたが、いけないからだ」
「あら、なぜでございますか」
「いえない」
胸を空《あ》けて、待つとない悶《もだ》えをしめすと、
とっさに、どういう小むすめの気安さが、
その彼に見えすいたのか、藤夜叉の方から寄りすがって、ひたと甘えた。
「仰ッしゃってくださいませ。どうして、わたしが。
……イヤ、イヤ。仰っしゃって下さらなければ」
「わからぬか」
「きっと、道誉さまの御酒宴で、
わたしまでが、余りにお杯をすすめたからと」
「ちがう」
つよく顔を振って。
「そなたは、もしや……」
黒髪ぐるみ彼女の顔を両腕の中に容《い》れてじっとまた見た。
もう藤夜叉もじぶんを見入る異様な眉間の陽炎《かげろう》にも
なんの恐怖も抱いてはいない。
——そして、舞台ではいとど可憐に思われた小柄な姿も、
その黒髪のいただきは、
ちょうど高氏の唇をかくすほどな背丈《せたけ》はあった。
しかも素顔は、なおどこか大人びてもいた。
腮《あぎと》や頬はくりっとしていて、
全体には棗形《なつめなり》だが、ただ美貌だけの人形美でもない。
野葡萄《のぶどう》のような眸は、
これを男に濡れさせてみたくなるばかりな蠱惑《こわく》をひそめ、
なにかに渇《かわ》いているらしい唇が
その口紅を黒ずませて烈しい動悸《ときめき》に耐えている。
🌹🎼#海を見ていた written by #のる
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