——夜《よ》は夜《よる》を新たにして。
と昼間、道誉が言った。
いかにもばさらないい方で彼らしい言と思われたが、
約束のごとくその晩、
城内の的場から武者廂までを容れた俄舞台と桟敷で、
新座の花夜叉一座の、田楽見物が行われた。
もちろん、高氏を主賓に。
そしてその晩は、家中一同にも陪観をゆるされ、
人影は桟敷の外まであふれたが、
とりわけ、道誉のそばには、
盛装した一と群れの女房たちが華やいで
芝居篝《しばいかがり》に照り映えていた。
また、高氏の後ろにも、数名の女性が侍《かしず》いている。
が、それは、道誉の侍女たちか、遊女の種類なのか、
高氏には判じもつかない。
彼女らはこもごもに、主賓の彼へ杯をすすめたり、
台盤のさかな箸をおき直したり、またその嬌笑を、
時々の笑いどよめきの波と、ひとつにしていた。
だが、高氏だけは、そんなせつなも、笑い遅れて、
うつろな迷《は》ぐれ笑いを、あとから、頬へかすめていた。
じつはまだ肉体的にも、この饗応を自分中心に受けて、
辺りの歓と溶け合えないでいるらしい。
むりもなかった。
——先刻、黄昏《たそが》れすぎて、奥庭のあの茶堂から、
やっと出て来たときには、
まさに、虎口をのがれたという気がしたほどだった。
——喫茶にことよせて、道誉と左近から、秘中の秘事を、
うちあけられた末、
「応か否《いな》か」
「いざ、御真意をもらし給え」
と、その二人に、にじり寄られた時の恐《こわ》さ。
そして、
一瞬のためらいもゆるされない中におかれた自分の総毛立ッた体を
高氏は生涯忘れることはできまい。
だが、彼の生れつきな妙につかみどころのない風貌は、
そんな二人の眼光を無反応なものにして、
自己を茫漠《ぼうばく》としておくには、甚だ都合のいいものだった。
「……さ、なにぶんにも、自分はまだ曹司(部屋住み)の身」
というを口実に。
「父貞氏と意見が割れては、家中もまとまらず、
わるくすれば鎌倉へ洩れる惧《おそ》れもある。
それを思えば、
日野殿(蔵人)との御密談も足利の地においてうけたまわりたい。
他日もしお微行《しのび》の御東下あらば、
父をも加え、いかようにも計らわん」
ふしぎにも、すらすらと口に出たのである。
言い抜けらしい苦渋《くじゅう》は見えぬせいか、
道誉も左近も「……では」と、得心の色をなごませて、
やっとその場は事なきをえたものだった。
「もし、足利さまの小殿《ことの》」
みなが笑うときでも彼の顔だけが笑っていない。
——その主賓に気づいたのか、
後ろの女性のひとりが銚子に白い手を持ち添えて
高氏のわきへすりよっていた。
「小殿のおん眉には、まだ御酒も足らぬそうな。
それとも、藤夜叉《ふじやしゃ》にお見恍《みと》れでございますか」
「藤夜叉」
「あれ、お目はどこに。ホホホホ、
いま舞台で舞っている艶《あで》な田楽女《でんがくひめ》のことですのに」
城仕えの者なら、
馴々しく自分を“小殿”というような呼び方はしまい。
さてはこの女たちは湖畔の遊女だろうか。
高氏はすこし気がらくになった。
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