「御念までもない。しかし御不安なれば、聞かずとも」
「いや、申さいでは天意にそむく。足利殿も天皇領の御住人。
……そこはかとなく、待てる時節が来ているとは思しめさぬか」
「どういう時節が」
「これはまた、あっぱれな、おとぼけ顔ではある」
打ッちゃられたように、左近はツギ穂を失って、
どぎまぎしたが、その反動をこめて、また。
「由来、名門足利家の御血統が、北条氏より高く、
へたをすれば、北条家の門地を超ゆるものあるを恐れて、
わざとお家を不遇な地方におき、
それが代々御家運の衰微《すいび》となって、
今日にいたったことは、おん曹司として、
よもご存知なきはずはおざるまい」
「ぞんじておる」
「ならば」
「でも、どうにもならぬ」
「ははあ?」
左近は、意気ごみを引いて、急に考えをかえたらしい。
「ムム、さすが御警戒とみゆるわ。
では、ここの御滞在中を幸いに、
直々のさる朝臣と、とっくり御密談していただけますまいか。
拙者がなにを申そうよりは」
「長逗留《ながとうりゅう》の心はなけれど。……その朝臣とは」
「すぐる日の淀川舟にて、すでに姿だけは、お見知り合いの」
「日野蔵人どのか」
「その俊基朝臣でおざるが」
「会うてなんの密談を」
「さ、それも拙者の言と軽んぜられ、
二の足も三の足もお踏みでは何もならぬ。
が、もうここまでお打明けしたこと。……じつは」
猪首《いくび》をかがめて、上《う》わ眼《め》で、
高氏を睨むように見た。
左の手が、小刀のある脇腹にかくされたのは、
脅《おど》しとしても、物騒な姿勢である。
高氏は見まいとした。
こういう時は地蔵菩薩を念じていよ、
とよくいった母のささやきがどこかで聞えた。
「——げに、おそれ多いが、すでに、やごとなき辺りより、
内々の綸旨《りんじ》も賜わっておる儀なので」
彼の小声はつづいている。
その密語のうちには、日野蔵人のほか
——花山院|師賢《もろかた》、烏丸|成輔《なりすけ》、
四条|隆資《たかすけ》、日野|資朝《すけとも》らの名が洩らされ、
討幕の綸旨をおびたそれぞれは、
折あるごとに、山伏や雑人に姿をやつし、
諸国の武門を密々説きまわっている今——とも確言した。
「ここで足利家の総領の君を仰ぐとは、まことに天の配剤。
ぜひ一つお会い下さるまいか、その蔵人どのと」
彼の熱ッぽい語気が、と切れたときである。
遠くだったが、とつぜん、田楽楽器の合奏が、
いつか黄昏《たそが》れた山城のしじまをゆるく破っていた。
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