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源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸

源氏物語&古典をはじめ、日常の生活に雅とユーモアと笑顔を贈ります🎁

2024-07-01から1ヶ月間の記事一覧

【私本太平記28 第1巻 ばさら大名③】「足利家も源氏の御嫡流、佐々木殿も頼朝公以来の名族。 申さば同じ流れのお裔《すえ》、ここでお会いなされる御縁が、自然待っていたものとぞんずる」と述べた。

ところで“名のり”を高氏と称する当の人物というのは、 その江北京極家の当主であった。 つまりこの地方の守護大名、 佐々木佐渡ノ判官《ほうがん》高氏殿こそがその人なので……と、 土岐左近は、 一応の紹介の辞でもすましたような、したり顔で 「足利家も源…

【私本太平記27 】💐ばさら大名②〜古くから近江源氏と世に呼ばるる佐々木定綱、高綱らの末裔の門たるは、鎌倉初期において、佐々木系は二つに分れ、一は江南の六角家、一は江北の京極家となっている。

「や。……さっきの武者が」 「なに。あの群れの中に」 「見えまする。しかも、何やら佇《たたず》み合って」 犬上郡 の野路をすぎ、 不知哉《いさや》川を行くてに見出したときである。 華やかな旅装の一と群れが河原に立ちよどんで、 頻りとこっちを振向いて…

【私本太平記24 第1巻 大きな御手16〈みて〉〜「足利家七代の君、若殿には御祖父にあたる家時公の御遺書のことでござります」肺腑を突くとは、こんな言を擬して、一瞬、はっと息を呑ませる鋭さをいうのだろう。

動画のオープニングは私本太平記24が正しいです 「……さ。いま伺えば、 その若公卿が召連れていた侍童の名は、菊王とか」 「たしか菊王と呼んだと思う」 「ならばそれも、天皇に近う仕えまつる近習の御一名、 前《さき》の大内記、日野蔵人俊基朝臣 《ひのく…

【私本太平記23 第1巻 大きな御手15〈みて〉】〜丹波篠村ほか数ヵ村は、下野国とは遠く離れているが、足利家代々相続の飛び領の地だった。同様な小領土は、他地方にもあり、ここだけではないのである。

「やっ、もしや?」 とつぜん、馬上の者が、 土にぽんと音をさせて降り立ったので、 それには主従も、何事かと、 怪訝《いぶか》りを持たないわけにゆかなかった。 「おう、間違いはない」と、 武士は又太郎の前へひざまずいた。 そしてもいちど、松明の下か…

【私本太平記25 第1巻 大きな御手17完】足利家の者にとっては、先々代の主君家時の話というのは禁句だった。なぜならば、絶対に公表できない原因で、しかもまだ三十代に、あえなく自殺した君だからである。

人気ブログランキング ——およそ足利家の者にとっては、 先々代の主君家時の話というのは禁句だった。 なぜならば、絶対に公表できない原因で、 しかもまだ三十代に、 あえなく自殺した君だからである。 ところが。 ——その家時の血書の“置文”(遺書)というも…

【私本太平記26 第1巻 ばさら大名①】春風に嬲らせていく面構えのどこかには「…ままよ」といった風な地蔵あばたの太々しさが、いつも多少の笑みを伴っている。そしてもっと大きな視野へその眉は向っていた。

騎旅《きりょ》は、はかどった。 丹波を去ったのは、先おととい。 ゆうべは近江《おうみ》愛知川《えちがわ》ノ宿《しゅく》だった。 そして今日も、春の日長にかけて行けば、 美濃との境、磨針峠《すりばりとうげ》の上ぐらいまでは、 脚をのばせぬこともな…

【私本太平記22 第1巻 大きな御手14〈みて〉】しずかな姿には、 どことなく、武人の骨ぐみが出来ている。 少しも体に隙がない。 公卿が 日頃に武技の鍛錬もしているという世は いったい何を語るものか。

「さても、あのあと、どうなったかな?」 「最前の舟の出来事で」 「さればよ。あの若公卿の演舌など、 もすこし聞いていたかった。惜しいことを」 「まことに、 異態《いてい》な長袖《ちょうしゅう》でございましたな。 公卿と申せば、ただなよかに、 世事…

【源氏物語705 第22帖 玉鬘5】長兄の豊後介だけは監の味方でなかった。「もったいないことだ。少弐の御遺言があるのだから、自分はどうしてもこの際姫君を京へお供しましょう」と母や妹に言う。

長兄の豊後介《ぶんごのすけ》だけは監の味方でなかった。 「もったいないことだ。 少弐の御遺言があるのだから、 自分はどうしてもこの際姫君を京へお供しましょう」 と母や妹に言う。 女たちも皆泣いて心配していた。 母君がどうおなりになったか知れない…

【平家物語109 第4巻 鵺〈ぬえ〉①】頼政は「宮中に武士をおくのは、反逆の者を退け、 勅に背く者を追討するのを本務とする。 目に見えぬ化性の退治とはまだ聞き及ばぬこと」と不服であったが参内した。

源三位入道頼政は、 摂津守頼光から五代目の子孫三河守頼綱の孫、 兵庫頭《ひょうごのかみ》仲政の子である。 保元の合戦のとき朝廷側につきさきがけしたが別に恩賞はなく、 平治の乱においても親類などを捨てて合戦に力をつくしたが、 みるべき恩賞は与えら…

【私本太平記21 第1巻 大きな御手13】新帝後醍醐の徳を、彼は称える。飢饉には、供御の物も減ぜられ、吏を督して、米価や酒の値上りを正し、施粥小屋数十ヵ所を辻々に設けて、飢民を救わせ給うたとも説く。

「——いま汝らの怨《えん》じた上の者とは、 みな武家であろうがの。 よいか、守護、地頭、その余の役人、 武家ならざるはない今の天下ぞ。 ——その上にもいて、 賄賂取りの大曲者《おおくせもの》はそも誰と思うか。 聞けよ皆の者」 彼の演舌は、若雑輩のみが…