2024-07-01から1ヶ月間の記事一覧
「発見したって、どんな人かね。 えらい修験者などと懇意になってつれて来たのか」 と源氏は言った。 「ひどいことをおっしゃいます。 あの薄命な夕顔のゆかりの方を見つけましたのでございます」 「そう、それは哀れな話だね、これまでどこにいたの」 と源…
灯《ひ》などをともさせてくつろいでいる源氏夫婦は美しかった。 女王《にょおう》は二十七、八になった。 盛りの美があるのである。 このわずかな時日のうちにも美が新しく加わったかと 右近の目に見えるのであった。 姫君を美しいと思って、 夫人に劣って…
右近は旅からすぐに六条院へ出仕した。 姫君の話をする機会を早く得たいと思う心から急いだのである。 門をはいるとすでにすべての空気に 特別な豪華な家であることが感ぜられるのが六条院である。 来る車、出て行く車が無数に目につく。 自分などがこの家の…
これだけの美貌《びぼう》が備わっていても、 田舎風のやぼな様子が添っていたなら、 どんなにそれを玉の瑕《きず》だと惜しまれることであろう、 よくもこれほどりっぱな貴女にお育ちになったものであると、 右近は少弐未亡人に感謝したい心になった。 母の…
「どうしてもお亡《かく》れになった奥様を 忘れられなく思召《おぼしめ》してね。 奥様の形見だと思って姫君のお世話をしたい、 自分は子供も少なくて物足りないのだから、 その人が捜し出せたなら、 自分の子を家へ迎えたように世間へは知らせておこうと、…
「こんなすぐれたお生まれつきの方を、 もう一歩で暗い世界へお沈めしてしまうところでしたよ。 惜しくてもったいなくて、 家も財産も捨てて頼りにしてよい息子にも娘にも別れて、 今ではかえって知らぬ他国のような心細い気のする京へ 帰って来たのですよ。…
殿様はおっしゃいますのですよ、 自分の父君の帝《みかど》様の時から 宮中の女御《にょご》やお后《きさき》、 それから以下の女性は無数に見ているが、 ただ今の帝様のお母様のお后の御美貌と自分の娘の顔とが 最もすぐれたもので、 美人とはこれを言うの…
雑用をする僧は願文《がんもん》のことなどもよく心得ていて、 すばやくいろいろのことを済ませていく。 「いつもの藤原瑠璃君《ふじわらのるりぎみ》という方のために 経をあげてよくお祈りすると書いてください。 その方にね、近ごろお目にかかることがで…
国々の参詣《さんけい》者が多かった。 大和守《やまとのかみ》の妻も来た。 その派手な参詣ぶりをうらやんで、三条は仏に祈っていた。 「大慈大悲の観音様、ほかのお願いはいっさいいたしません。 姫君を大弐《だいに》の奥様でなければ、 この大和の長官の…
右近は人知れず九州の一行の中の姫君の姿を目に探っていた。 そのうちに美しい後ろ姿をした一人の、 非常に疲労した様子で、 夏の初めの薄絹の単衣《ひとえ》のような物を上から着て、 隠された髪の透き影のみごとそうな人を右近は見つけた。 お気の毒である…
淀川舟で見かけた一朝臣の姿も、 伊吹のばさら大名の言なども、 顧みれば、なにか偶然めいた感である。 それが一世の指向とは俄にも信じ難い。 さればとて、現朝廷が、 これまでのごとき無気力な朝廷でないことだけは、 確かだった。 ——またいま、堂上に流行…
【私本太平記43 第1巻 藤夜叉⑨】「母の仰せどおり、わしは観て来た。井の中の蛙が世間の端をのぞいたほどな旅かも知れぬが」彼は自負する。この旅が無為でなく、大いに学び得た旅だったとは、信じているのだ。
旅の風はまたふたたび、 馬上の高氏の鬢面《びんづら》をソヨソヨ後ろへ流れてゆく。 その朝、彼は伊吹を立っていた。 別れぎわには、佐々木道誉以下、土岐左近らも、 とにかく表面ねんごろに別辞をつくした。 わけて、道誉は、 「きっと、御再会の日をお待…
責められているかの如く、 ——なにを泣く。 高氏は刺々《とげとげ》と心でののしる。 あッちへ行け。 消えてなくなれ。 しかし、 それはじぶんの慚愧《ざんき》へ向って言ったことばでもある。 彼の過失が、 そのまま藤夜叉にも同等な過失だったと言いきれる…
「……そなた、下野国の御厨にいたことはないか」 「いいえ」 「御厨ノ牧にいたことも」 「ありません」 「では、生国は」 「越前とだけ聞かされておりますが」 「越前」 と、息をひいて。 「じゃあ違っていたか。 余りにも、そなたが牧長の娘とよう似ていたゆ…
彼のひとみは、そればかりでないものを見た。 ここには、彼以前に、もひとり人影がたたずんでいた。 いや、その者も木の根か何かにこしかけていたのらしいが、 すぐその辺まで来た高氏の影が ふいに崩れるような恰好でうずくまってしまったのを見ると、 それ…
高氏もこれまでに女性の体を知らないのではなかった。 多分に未開な下野国《しもつけ》地方では、 上下共に楽しみといえば 自然飲み食いか男女の関係にかぎられている。 筑波の歌垣《うたがき》に似た上代の遺風が 今なお祭りの晩には行われるほどだった。 …
たぶんもう夜なか過ぎか。 田楽狂言も終って、あれからべつの墨絵の広間で宴となり、 やがて役者たちをも座に加えて ばさらな残夜《ざんや》を飲み更《ふ》かしたのも、 ずいぶん長かった覚えがある。 「……むりもない」 と高氏は自分へつぶやく。 その足もと…
遠いむかし。地方の民が、 大蔵省へ馬で貢税《みつぎ》を運び入れながら 唄った国々の歌が 催馬楽《さいばら》となったといわれるが、 田楽ももとは農土行事の田植え囃子《ばやし》だった。 それがやがて、都人士《とじんし》の宴席に興じられ、 ついには近…
【私本太平記36 藤夜叉②】田楽役者の玉虫色に光る衣裳も、田楽女の白粉顔も、かえって夢幻をあざらかにし、われひと共にひとしい時代の抱く哀歓と、それが求める救いの滑稽とを、一種の妖気のように醸していた。
女は、高氏の曲もない飲みぶりに、 その杯を愛惜《いとし》んで、 「小殿、おながれを」 と媚《こ》びて、ねだッた。 そして、彼の浮かない横顔と舞台の方とを等分に見つつ。 「小殿も田楽はお好きなのでございましょう」 「む。きらいでもない」 「さして、…
——夜《よ》は夜《よる》を新たにして。 と昼間、道誉が言った。 いかにもばさらないい方で彼らしい言と思われたが、 約束のごとくその晩、 城内の的場から武者廂までを容れた俄舞台と桟敷で、 新座の花夜叉一座の、田楽見物が行われた。 もちろん、高氏を主…
騎旅は、はかどった。 丹波を去ったのは、先おととい。 ゆうべは近江愛知川《えちがわ》ノ宿《しゅく》だった。 そして今日も、春の日長にかけて行けば、 美濃との境、磨針峠《すりばりとうげ》の上ぐらいまでは、 脚をのばせぬこともないと、 馬上、舂《う…
【平家物語117 第5巻 月見②】庭に生い茂る野草が月明らかに照らし、 草をそよがす秋風に降る虫の声が哀れにまじる。 今様を三度くり返すうちに、大将も大宮の眼にも涙が浮んだ。 侍従は袖で顔をおおった。
実定の身内のもので、 この京に残っているものは近衛河原の大宮ただ一人、 荒野をさまようにも似た心地の実定は大宮を訪れた。 従者が大門を叩く。 「どなた、蓬の露を払ってまで訪れる人もないのに」 とは女の声、あとは一人呟くともとれぬ声である。 「福…
しかしながら新都の建設は少しずつ進んでいった。 六月九日起工の式、八月十日|上棟《じょうとう》の式、 十一月十三日遷幸と定められ、 人々も多少はゆとりをもってきた。 福原にどうやら新都らしいおもかげが出てきたが、 凶変の重なった夏もすでに過ぎ、…
しかしながら新都の建設は少しずつ進んでいった。 六月九日起工の式、八月十日|上棟《じょうとう》の式、 十一月十三日遷幸と定められ、 人々も多少はゆとりをもってきた。 福原にどうやら新都らしいおもかげが出てきたが、 凶変の重なった夏もすでに過ぎ、…
この年六月九日、新都の政事始めとして、造営の計画が練られた。 上卿《しょうけい》には徳大寺の左大将 実定卿《じっていのきょう》、 土御門宰相《つちみかどのさいしょうの》中将 通親卿《とうしんのきょう》、 奉行弁《ぶぎょうのべん》には、 前左少弁…
【平家物語114 第5巻 都うつり③】桓武天皇は、土で八尺の人形を造らせ、鉄の鎧兜を着せ、弓矢をこれに持たせて東山の峰に西向きに立てたまま地に埋めた。この都は永久に続くべしという天皇のご祈念であった。
京都を殊の外 気に入られた桓武天皇は、 大臣公卿、諸国の才人などに命じて、 土で八尺の人形をつくり、鉄の鎧兜を着せ、 弓矢をこれに持たせて東山の峰に西向きに立てたまま地に埋めた。 この都は永久に続くべしという桓武天皇のご祈念であった。 「末代に…
法皇が世を厭われたのは当然であろう。 あれほど強かった政治への執心も 今は全く薄れ消えたかに思われた。 「今の世の政治にかかわろうとは露も思わぬ。 ただ霊山名刹を廻って修行し、心慰めたいものである」 と側近にもらされていた。 さる安元以来、多く…
京都の街は公卿も庶民も動揺した。 治承四年六月三日の日、天皇は福原へ行幸し、 都うつりさせ給うとのことである。 都うつりの噂はかねて流れてはいたが、 まだまだ先のことであると人々は思っていた。 それが三日ときまっていたのを一日早められた。 こと…
【平家物語111 第四巻完 三井寺炎上】灰燼に帰したのは、本覚院、成喜院、真如院、鐘楼、護法善神の社壇、新熊野の宝殿‥この火災で智証大師が唐からたずさえた所の一切経七千余巻、仏像二千余体は灰となった。
五月二十七日、三井寺攻略の軍が起された。 奈良興福寺と三井寺互に呼応して謀叛の宮を受け入れ、 あるいは武装して出迎えるなど、 これは朝敵の行為であると平家は断じ、 共に討つべしとの声が高まったが、 まず三井寺からと軍が編成された。 大将軍は頭中…
南殿にきた頼政は、 猪早太をかたわらに控えさせると空を仰いだ。 静かに晴れた夜空である。 変化飛来の噂など信じかねる穏かな夜であった。 変化退散の仕事は僧侶にあるはずだ、弓矢とるこの身は、 などと頼政の心中には恐らく不平が渦巻いていたであろう。…