第十三帖 明石(あかし)源氏物語
この当座幾日は山手の家へ行く気もしなかった。 女は長い途絶えを見て、 この予感はすでに初めからあったことであると歎《なげ》いて、 この親子の間では最後には海へ身を投げればよいという言葉が 以前によく言われたものであるが、 いよいよそうしたいほど…
「誓ひしことも」 (忘れじと誓ひしことをあやまたば三笠《みかさ》の山の神もことわれ) という歌のように私は信じています。 と書いて、また、 何事も、 しほしほと 先《ま》づぞ泣かるる かりそめの みるめは海人《あま》の すさびなれども と書き添えた…
新しい恋人は得ても 女王へ焦れている心は慰められるものでもなかったから、 平生よりもまた情けのこもった手紙を源氏は京へ書いたのであるが、 奥に今度のことを書いた。 私は過去の自分のしたことではあるが、 あなたを不快にさせたつまらぬいろいろな事件…
入道からいえば事が成就しているのであるが、 その境地で新しく物思いをしているのが憐《あわ》れであった。 二条の院の女王《にょおう》にこの噂が伝わっては、 恋愛問題では嫉妬する価値のあることでないとわかっていても、 秘密にしておく自分の態度を恨…
その翌日は手紙を送るのに以前よりも人目がはばかられる気もした。 源氏の心の鬼からである。 入道のほうでも公然のことにはしたくなくて、 結婚の第二日の使いも、 そのこととして派手に扱うようなことはしなかった。 こんなことにも娘の自尊心は傷つけられ…
源氏自身の内に たいした衝動も受けていないでこうなったことも、 前生の因縁であろうと思うと、 そのことで愛が湧《わ》いてくるように思われた。 源氏から見て近まさりのした恋と言ってよいのである。 平生は苦しくばかり思われる秋の長夜もすぐ明けていく…
源氏がそこへはいって来ようなどとは 娘の予期しなかったことであったから、 それが突然なことでもあって、 娘は立って近い一つの部屋へはいってしまった。 そしてどうしたのか、 戸はまたあけられないようにしてしまった。 源氏はしいてはいろうとする気に…
「今音が少ししたようですね。 琴だけでも私に聞かせてくださいませんか」 とも源氏は言った。 むつ言を 語りあはせん 人もがな うき世の夢も なかば覚《さ》むやと 明けぬ夜に やがてまどへる 心には 何《いづ》れを夢と 分《わ》きて語らん 前のは源氏の歌…
力で勝つことは初めからの本意でもない、 女の心を動かすことができずに帰るのは 見苦しいとも思う源氏が追い追いに熱してくる言葉などは、 明石の浦でされることが少し場所違いで もったいなく思われるものであった。 几帳《きちょう》の紐《ひも》が動いて…
月のさし込んだ妻戸が少しばかり開かれてある。 そこの縁へ上がって、源氏は娘へものを言いかけた。 これほどには接近して逢おうとは思わなかった娘であるから、 よそよそしくしか答えない。 貴族らしく気どる女である。 もっとすぐれた身分の女でも 今日ま…
山手の家は 林泉の美が浜の邸《やしき》にまさっていた。 浜の館《やかた》は派手に作り、 これは幽邃《ゆうすい》であることを主にしてあった。 若い女のいる所としてはきわめて寂しい。 こんな所にいては人生のことが 皆身にしむことに思えるであろうと源…
源氏は、 「この秋の季節のうちにお嬢さんの音楽を 聞かせてほしいものです。 前から期待していたのですから」 などとよく入道に言っていた。 入道はそっと婚姻の吉日を暦で調べさせて、 まだ心の決まらないように言っている妻を無視して、 弟子にも言わずに…
親たちは長い間祈ったことの 事実になろうとする時になったことを知りながら、 結婚をさせて源氏の愛の得られなかった時はどうだろうと、 悲惨な結果も想像されて、 どんなりっぱな方であっても、 その時は恨めしいことであろうし、 悲しいことでもあろう、 …
長い間 噂《うわさ》だけを聞いていて、 いつの日にそうした方を 隙見《すきみ》することができるだろうと、 はるかなことに思っていた方が 思いがけなくこの土地へおいでになって、 隙見ではあったがお顔を見ることができたし、 有名な琴の音を聞くこともか…
不つりあいの結婚をありがたいことのように思って、 成り立たせようと心配している親たちも、 自分が娘でいる間はいろいろな空想も作れていいわけなのであるが、 そうなった時から親たちは別なつらい苦しみをするに違いない。 源氏が明石に滞留している間だ…
明石ではまた 秋の浦風の烈しく吹く季節になって、 源氏もしみじみ独棲みの寂しさを感じるようであった。 入道へ娘のことをおりおり言い出す源氏であった。 「目だたぬようにしてこちらの邸《やしき》へ よこさせてはどうですか」 こんなふうに言っていて、 …
「私はやはり源氏の君が犯した罪もないのに、 官位を剥奪《はくだつ》されているようなことは、 われわれの上に報いてくることだろうと思います。 どうしても本官に復させてやらねばなりません」 このことをたびたび帝は太后へ仰せになるのであった。 「それ…
太后へお話しになると、 「雨などが降って、天気の荒れている夜などというものは、 平生神経を悩ましていることが 悪夢にもなって見えるものですから、 それに動かされたと 外へ見えるようなことはなさらないほうがよい。 軽々しく思われます」 と母君は申さ…
この年は日本に天変地異ともいうべきことがいくつも現われてきた。 三月十三日の雷雨の烈《はげ》しかった夜、 帝《みかど》の御夢に 先帝が清涼殿の階段《きざはし》の所へお立ちになって、 非常に御機嫌の悪い顔つきでおにらみになったので、 帝がかしこま…
何ほども遠くなってはいないのであるが、 ともかくも須磨の関が中にあることになってからは、 京の女王がいっそう恋しくて、 どうすればいいことであろう、 短期間の別れであるとも思って捨てて来たことが残念で、 そっとここへ迎えることを実現させてみよう…
相手をするに不足のない思い上がった娘であることがわかってきて、 源氏の心は自然 惹かれていくのであるが、 良清《よしきよ》が 自身の縄張りの中であるように言っていた女であったから、 今眼前横取りする形になることは彼にかわいそうであると なお躊躇…
思ふらん 心のほどや やよいかに まだ見ぬ人の 聞きか悩まん 手も書き方も京の貴女にあまり劣らないほど上手であった。 こんな女の手紙を見ていると京の生活が思い出されて 源氏の心は楽しかったが、 続いて毎日手紙をやることも人目がうるさかったから、 二…
翌日また源氏は書いた。 代筆のお返事などは必要がありません。と書いて、 いぶせくも 心に物を 思ふかな やよやいかにと 問ふ人もなみ 言うことを許されないのですから。 今度のは柔らかい薄様《うすよう》へはなやかに書いてやった。 若い女がこれを不感覚…
もったいないお手紙を得ましたことで、 過分な幸福をどう処置してよいかわからぬふうでございます。 それをこんなふうに私は見るのでございます。 眺むらん 同じ雲井を 眺むるは 思ひも同じ 思ひなるらん だろうと私には思われます。 柄にもない風流気を私の…
人知れずこの音信を待つために山手の家へ来ていた入道は、 予期どおりに送られた手紙の使いを大騒ぎしてもてなした。 娘は返事を容易に書かなかった。 娘の居間へはいって行って勧めても娘は父の言葉を聞き入れない。 返事を書くのを恥ずかしくきまり悪く思…
やっと思いがかなった気がして、 涼しい心に入道はなっていた。 その翌日の昼ごろに 源氏は山手の家へ手紙を持たせてやることにした。 ある見識をもつ娘らしい、 かえってこんなところに 意外なすぐれた女がいるのかもしれないからと思って、 心づかいをしな…
「ひとり寝は 君も知りぬや つれづれと 思ひあかしの うら寂しさを 私はまた長い間口へ出してお願いすることができませんで 悶々《もんもん》としておりました」 こう言うのに身は慄《ふる》わせているが、 さすがに上品なところはあった。 「寂しいと言って…
「冤罪《えんざい》のために、 思いも寄らぬ国へ漂泊《さまよ》って来ていますことを、 前生に犯したどんな罪によってであるかと わからなく思っておりましたが、 今晩のお話で考え合わせますと、 深い因縁によってのことだったとはじめて気がつかれます。 …
私自身は前生の因縁が悪くて、 こんな地方人に成り下がっておりましても、 親は大臣にもなった人でございます。 自分はこの地位に甘んじていましても 子はまたこれに準じたほどの者にしかなれませんでは、 孫、曾孫《そうそん》の末は 何になることであろう…
「申し上げにくいことではございますが、 あなた様が思いがけなくこの土地へ、 仮にもせよ移っておいでになることになりましたのは、 もしかいたしますと、 長年の間老いた法師がお祈りいたしております神や仏が 憐《あわれ》みを一家におかけくださいまして…