第九帖 葵(あおい)源氏物語
「こんな老人になってから、 若盛りの娘に死なれて無力に私は泣いているじゃないか」 恥じてこう言って泣く大臣を悲しんで見ぬ人もなかった。 夜通しかかったほどの大がかりな儀式であったが、 終局は煙にすべく 遺骸を広い野に置いて来るだけの寂しいことに…
これまで物怪《もののけ》のために 一時的な仮死状態になったことも たびたびあったのを思って、 死者として枕を直すこともなく、 二、三日はなお病夫人として寝させて、 蘇生《そせい》を待っていたが、 時間はすでに亡骸《なきがら》であることを証明する…
秋の官吏の昇任の決まる日であったから、 大臣も参内したので、 子息たちもそれぞれの希望があって このごろは大臣のそばを離れまいとしているのであるから 皆続いてそのあとから出て行った。 いる人数が少なくなって、 邸内が静かになったころに、 葵の君は…
非常な美人である夫人が、衰弱しきって、 あるかないかのようになって寝ているのは 痛々しく可憐《かれん》であった。 少しの乱れもなくはらはらと枕にかかった髪の美しさは 男の魂を奪うだけの魅力があった。 なぜ自分は長い間この人を 飽き足らない感情を…
「御所などへあまり長く上がらないで気が済みませんから、 今日私ははじめてあなたから離れて行こうとするのですが、 せめて近い所に行って話をしてからにしたい。 あまりよそよそし過ぎます。こんなのでは」 と源氏は夫人へ取り次がせた。 「ほんとうにそう…
少し安心を得た源氏は、生霊をまざまざと目で見、 御息所の言葉を聞いた時のことを思い出しながらも、 長く訪ねて行かない心苦しさを感じたり、 また今後御息所に接近してもあの醜い記憶が心にある間は、 以前の感情でその人が見られるかということは 自身の…
六条の御息所はそういう取り沙汰を聞いても 不快でならなかった。 夫人はもう危いと聞いていたのに、 どうして子供が安産できたのであろうと、 こんなことを思って、 自身が失神したようにしていた幾日かのことを、 静かに考えてみると、 着た衣服などにも祈…
病苦にもだえる声が少し静まったのは、 ちょっと楽になったのではないかと 宮様が飲み湯を持たせておよこしになった時、 その女房に抱き起こされて間もなく子が生まれた。 源氏が非常にうれしく思った時、 他の人間に移してあったのが 皆 口惜《くちお》しが…
「そんなに悲しまないでいらっしゃい。 それほど危険な状態でないと私は思う。 またたとえどうなっても 夫婦は来世でも逢えるのだからね。 御両親も親子の縁の結ばれた間柄は また特別な縁で 来世で再会ができるのだと信じていらっしゃい」 と源氏が慰めると…
几帳の垂れ絹を引き上げて源氏が中を見ると、 夫人は美しい顔をして、 そして腹部だけが盛り上がった形で寝ていた。 他人でも涙なしには見られないのを、 まして良人である源氏が見て惜しく悲しく思うのは道理である。 白い着物を着ていて、 顔色は病熱では…
まだ産期には早いように思って一家の人々が油断しているうちに 葵の君はにわかに生みの苦しみにもだえ始めた。 病気の祈祷のほかに安産の祈りも数多く始められたが、 例の執念深い一つの物怪だけはどうしても夫人から離れない。 名高い僧たちもこれほどの物…
斎宮は去年にもう御所の中へお移りになるはずであったが、 いろいろな障《さわ》りがあって、 この秋いよいよ潔斎生活の第一歩をお踏み出しになることとなった。 そしてもう九月からは嵯峨《さが》の野の宮へおはいりになるのである。 それとこれと二度ある…
ないことも悪くいうのが世間である、 ましてこの際の自分は 彼らの慢罵欲《まんばよく》を 満足させるのによい人物であろうと思うと、 御息所は名誉の傷つけられることが苦しくてならないのである。 死んだあとにこの世の人へ恨みの残った霊魂が 現われるの…
葵の君の容体はますます悪い。 六条の御息所の生霊であるとも、 その父である故人の大臣の亡霊が 憑いているとも言われる噂の聞こえて来た時、 御息所は自分自身の薄命を歎《なげ》くほかに 人を咀《のろ》う心などはないが、 物思いがつのればからだから離…
この間 うち少し癒《よ》くなっていたようでした病人に またにわかに悪い様子が見えてきて 苦しんでいるのを見ながら出られないのです。 とあるのを、 例の上手な口実である、 と見ながらも御息所は返事を書いた。 「袖《そで》濡《ぬ》るる こひぢとかつは …
物思いは御息所の病をますます昂《こう》じさせた。 斎宮をはばかって、 他の家へ行って修法などをさせていた。 源氏はそれを聞いてどんなふうに悪いのかと 哀れに思って訪ねて行った。 自邸でない人の家であったから、 人目を避けてこの人たちは逢った。 本…
左大臣家の人たちは、 源氏の愛人をだれかれと数えて、 それらしいのを求めると、 結局六条の御息所と二条の院の女は 源氏のことに愛している人であるだけ夫人に 恨みを持つことも多いわけであると、 こう言って、 物怪に言わせる言葉からその主を知ろうとし…
葵夫人は物怪《もののけ》がついたふうの容体で非常に悩んでいた。 父母たちが心配するので、 源氏もほかへ行くことが遠慮される状態なのである。 二条の院などへもほんの時々帰るだけであった。 夫婦の中は睦《むつ》まじいものではなかったが、 妻としてど…
自身の心を定めかねて、 寝てもさめても煩悶をするせいか、 次第に心がからだから離れて行き、 自身は空虚なものになっているという気分を 味わうようになって、 病気らしくなった。 源氏は初めから伊勢へ行くことに 断然不賛成であるとも言い切らずに、 「…
今日の源氏が女の同乗者を持っていて、 簾《みす》さえ上げずに来ているのをねたましく思う人が多かった。 御禊の日の端麗だった源氏が 今日はくつろいだふうに物見車の主になっている、 並んで乗っているほどの人は並み並みの女ではないはずであると こんな…
今日も町には隙間《すきま》なく車が出ていた。 馬場殿あたりで祭りの行列を見ようとするのであったが、 都合のよい場所がない。 「大官連がこの辺にはたくさん来ていて面倒な所だ」 源氏は言って、 車をやるのでなく、停《と》めるのでもなく、 躊躇《ちゅ…
きれいに装った童女たちを点見したが、 少女らしくかわいくそろえて切られた髪の裾が 紋織の派手な袴《はかま》にかかっているあたりが ことに目を惹いた。 「女王さんの髪は私が切ってあげよう」 と言った源氏も、 「あまりたくさんで困るね。 大人になった…
貴婦人としての資格を十分に備えながら、 情味に欠けた強い性格から、 自身はそれほどに憎んではいなかったであろうが、 そうした一人の男を巡って 愛の生活をしている人たちの間は また一種の愛で 他を見るものであることを知らない女主人の意志に 習って付…
源氏の情人である人たちは、 恋人のすばらしさを眼前に見て、 今さら自身の価値に反省をしいられた気がした。 だれもそうであった。 式部卿の宮は桟敷《さじき》で見物しておいでになった。 まぶしい気がするほどきれいになっていく人である。 あの美に神が…
行列に参加した人々は 皆 分相応に美しい装いで身を飾っている中でも 高官は高官らしい光を負っていると見えたが、 源氏に比べるとだれも見栄えがなかったようである。 大将の臨時の随身を、 殿上にも勤める近衛の尉《じょう》が するようなことは例の少ない…
源氏は御息所の来ていることなどは 少しも気がつかないのであるから、 振り返ってみるはずもない。 気の毒な御息所である。 前から評判のあったとおりに、 風流を尽くした物見車に たくさんの女の乗り込んでいる中には、 素知らぬ顔は作りながらも 源氏の好…
邸《やしき》を出たのはずっと朝もおそくなってからだった。 この一行はそれほどたいそうにも見せないふうで出た。 車のこみ合う中へ幾つかの左大臣家の車が続いて出て来たので、 どこへ見物の場所を取ろうかと迷うばかりであった。 貴族の女の乗用らしい車…
そのころ前代の加茂《かも》の斎院《さいいん》が おやめになって皇太后腹の院の女三の宮が新しく斎院に定まった。 院も太后もことに愛しておいでになった内親王であるから、 神の奉仕者として常人と違った生活へおはいりになることを 御親心に苦しく思召《…
この噂《うわさ》が世間から伝わってきた時、 式部卿《しきぶきょう》の宮の朝顔の姫君は、 自分だけは源氏の甘いささやきに酔って、 やがては苦い悔いの中に 自己を見いだす愚を学ぶまいと心に思うところがあって、 源氏の手紙に時には短い返事を書くことも…
あの六条の御息所《みやすどころ》の生んだ 前皇太子の忘れ形見の女王が 斎宮《さいぐう》に選定された。 源氏の愛のたよりなさを感じている御息所は、 斎宮の年少なのに托《たく》して自分も伊勢へ下ってしまおうかと その時から思っていた。 この噂《うわ…