2023-01-01から1年間の記事一覧
惟光は邸の中へはいってあちらこちらと歩いて見て、 人のいる物音の聞こえる所があるかと捜したのであるが、 そんな物はない。 自分の想像どおりにだれもいない、 自分は往《ゆ》き返りにこの邸《やしき》は見るが、 人の住んでいる所とは思われなかったのだ…
末摘花の君は物悩ましい初夏の日に、 その昼間うたた寝をした時の夢に父宮を見て、 さめてからも名残《なごり》の思いにとらわれて、 悲しみながら雨の洩《も》って濡れた廂《ひさし》の 室の端のほうを拭《ふ》かせたり 部屋の中を片づけさせたりなどして、…
車の中の源氏は昔をうつらうつらと幻に見ていると、 形もないほどに荒れた大木が 森のような邸《やしき》の前に来た。 高い松に藤がかかって月の光に花のなびくのが見え、 風といっしょにその香がなつかしく送られてくる。 橘《たちばな》とはまた違った感じ…
源氏は長くこがれ続けた紫夫人のもとへ 帰りえた満足感が大きくて、 ただの恋人たちの所などへは 足が向かない時期でもあったから、 常陸の宮の女王はまだ生きているだろうか というほどのことは時々心に上らないことはなかったが、 捜し出してやりたいと思…
「侍従はどうしました。暗くなりましたよ」 と大弐《だいに》夫人に小言《こごと》を言われて、 侍従は夢中で車に乗ってしまった。 そしてあとばかりが顧みられた。 困りながらも長い間離れて行かなかった人が、 こんなふうにして別れて行ったことで、 女王…
「絶ゆまじき すぢを頼みし 玉かづら思ひの ほかにかけ離れぬる 死んだ乳母《まま》が遺言したこともあるからね、 つまらない私だけれど一生あなたの世話をしたいと思っていた。 あなたが捨ててしまうのももっともだけれど、 だれがあなたの代わりになって私…
宮様の挨拶を女房が取り次いで来た。 「今日だけはどうしても昔を忘れていなければならないと 辛抱しているのですが、 御訪問くださいましたことでかえって その努力がむだになってしまいました」 それから、また、 「昔からこちらで作らせますお召し物も、 …
侍従は名残《なごり》を惜しむ間もなくて、 泣く泣く女王《にょおう》に、 「それでは、今日はあんなにおっしゃいますから、 お送りにだけついてまいります。 あちらがああおっしゃるのももっともですし、 あなた様が行きたく思召《おぼしめ》さないのも 御…
「御好意はうれしいのですが、 人並みの人にもなれない私はこのままここで死んで行くのが 何よりもよく似合うことだろうと思います」 とだけ末摘花は言う。 「それはそうお思いになるのはごもっともですが、 生きている人間であって、 こんなひどい場所に住…
小君を車のあとに乗せて、 源氏は二条の院へ帰った。 その人に逃げられてしまった今夜の始末を源氏は話して、 おまえは子供だ、やはりだめだと言い、 その姉の態度があくまで恨めしいふうに語った。 気の毒で小君は何とも返辞をすることができなかった。 「…
「宮様がおいでになったころ、 私の結婚相手が悪いからって、 交際するのをおきらいになったものですから、 私らもついかけ離れた冷淡なふうになっていましたものの、 それからも こちら様は源氏の大将さんなどと 御結婚をなさるような御幸運でいらっしゃい…
「もう出発しなければならないのですが、 こちらのことが気がかりなものですから、 今日は侍従の迎えがてらお訪ねしました。 私の好意をくんでくださらないで、 御自分がちょっとでも来てくださることを 御承知にならないことはやむをえませんが、 せめて侍…
そんなころであるが大弐の夫人が突然訪ねて来た。 平生はそれほど親密にはしていないのであるが、 つれて行きたい心から、 作った女王の衣裳《いしょう》なども持って、 よい車に乗って来た得意な顔の夫人が にわかに常陸の宮邸へ現われたのである。 門をあ…
冬にはいればはいるほど頼りなさはひどくなって、 悲しく物思いばかりして暮らす女王だった。 源氏のほうでは故院のための盛んな八講を催して、 世間がそれに湧《わ》き立っていた。 僧などは平凡な者を呼ばずに 学問と徳行のすぐれたのを選んで招じたその物…
「京へお置きして参ることは気がかりでなりませんから いらっしゃいませ」 と誘うのであるが、 女王の心は なお忘れられた形になっている源氏を頼みにしていた。 どんなに時がたっても 自分の思い出される機会のないわけはない、 あれほど堅い誓いを自分にし…
大弐の夫人は、私の言ったとおりじゃないか。 どうしてあんな見る影もない人を 源氏の君が奥様の一人だとお思いになるものかね、 仏様だって罪の軽い者ほどよく導いてくださるのだ。 手もつけられないほどの貧乏女でいて、 いばっていて、 宮様や奥さんのい…
そのうちに源氏 宥免《ゆうめん》の宣旨が下り、 帰京の段になると、 忠実に待っていた志操の堅さを だれよりも先に認められようとする男女に、 それぞれ有形無形の代償を喜んで源氏の払った時期にも、 末摘花だけは思い出されることもなくて幾月かがそのう…
そのうちに叔母の夫が九州の大弐《だいに》に任命された。 娘たちをそれぞれ結婚させておいて、 夫婦で任地へ立とうとする時にもまだ叔母は女王を伴って行きたがって、 「遠方へ行くことになりますと、 あなたが心細い暮らしをしておいでになるのを 捨ててお…
初めから地方官級の家に生まれた人は、 貴族をまねて、 思想的にも思い上がった人になっている者も多いのに、 この夫人は貴族の出でありながら、 下の階級へはいって行く運命を生まれながらに持っていたものか、 卑しい性格の叔母君であった。 自身が、家門…
侍従という乳母《めのと》の娘などは、 主家を離れないで残っている女房の一人であったが、 以前から半分ずつは勤めに出ていた斎院がおかくれになってからは、 侍従もしかたなしに 女王《にょおう》の母君の妹で、 その人だけが身分違いの地方官の妻になって…
古くさい書物|棚《だな》から、 唐守《からもり》、藐姑射《はこや》の刀自《とじ》、 赫耶姫《かぐやひめ》物語などを絵に描いた物を引き出して 退屈しのぎにしていた。 古歌などもよい作を選《よ》って、 端書きも作者の名も書き抜いて置いて見るのがおも…
古い歌集を読んだり、 小説を見たりすることでつれづれが慰められることにもなるし、 物質的に不足の多い境遇も忍んで行けるのであるが、 末摘花はそんな趣味も持っていない。 それは必ずしもよいことではないが、 暇な女性の間で友情を盛った手紙を書きかわ…
廚《くりや》の煙が立たないで なお生きた人が住んでいるという悲しい邸《やしき》である。 盗人というようながむしゃらな連中も 外見の貧弱さに愛想《あいそ》をつかせて、 ここだけは素通りにしてやって来なかったから、 こんな野良藪《のらやぶ》のような…
兄の禅師《ぜんじ》だけは稀《まれ》に 山から京へ出た時に訪《たず》ねて来るが、 その人も昔風な人で、同じ僧といっても生活する能力が全然ない、 脱俗したとほめて言えば言えるような男であったから、 庭の雑草を払わせればきれいになるものとも気がつか…
手道具なども昔の品の使い慣らしたりっぱな物のあるのを、 生《なま》物識りの骨董《こっとう》好きの人が、 だれに製作させた物、某の傑作があると聞いて、譲り受けたいと、 想像のできる貧乏さを軽蔑して申し込んでくるのを、 例のように女房たちは、 「し…
まだ少しばかり残っている女房は、 「これではしようがございません。 近ごろは地方官などがよい邸を自慢に造りますが、 こちらのお庭の木などに目をつけて、 お売りになりませんかなどと近所の者から言わせてまいりますが、 そうあそばして、 こんな怖しい…
よかった時代に昔から縁故のある女房は はじめてここに皆居つくことにもなって、 数が多くなっていたのも、 またちりぢりにほかへ行ってしまった。 そしてまた老衰して死ぬ女もあって、 月日とともに上から下まで召使の数が少なくなっていく。 もとから荒廃…
古くからいた女房たちなどは、 「ほんとうに運の悪い方ですよ。 思いがけなく神か仏の出現なすったような親切をお見せになる方ができて、 人というものはどこに幸運があるかわからないなどと、 私たちはありがたく思ったのですがね、 人生というものは移り変…
常陸《ひたち》の宮の末摘花《すえつむはな》は、 父君がおかくれになってから、 だれも保護する人のない心細い境遇であったのを、 思いがけず生じた源氏との関係から、 それ以来物質的に補助されることになって、 源氏の富からいえば物の数でもない情けを …
源氏が須磨《すま》、明石《あかし》に 漂泊《さすら》っていたころは、 京のほうにも悲しく思い暮らす人の多数にあった中でも、 しかとした立場を持っている人は、苦しい一面はあっても、 たとえば二条の夫人などは、 源氏が旅での生活の様子もかなりくわし…