この明雲大僧正は、
久我大納言顕通《こがのだいなごんあきみち》の子で、
仁安《にんあん》元年座主となり、
当時天下第一と言われる程の智識と高徳を備えた人で、
上からも下からも、尊敬されていた人だったが、
ある時、陰陽師《おんようし》の安倍泰親《あべのやすちか》が、
「これ程、智識のある人にしては不思議だが、
明雲の名は、上に日月、下に雲と、
行末の思いやられるお名前だ」
といったことがあったが、今になってみると、
その言葉もある程度うなずけるものがある。
二十一日は、座主の京都追放の日であった。
執行役人に追い立てられながら、
座主は泣くなく京をあとにして、
一先ず、一切経谷にある草庵に入った。
二十三日がいよいよ、東国伊豆に向って出発する日である。
さすがに日頃住みなれた都を離れ、
恐らくは二度と、
帰れぬであろう関東への旅に立つ大僧正の心の内には、
様々の想念が渦巻いていた。
一行は、夜あけがた京都を立ち、
やがて、もう大津の打出の浜にまで来た。
そこからは、
比叡の山の青葉若葉の萌えたつような色どりの中に
文殊楼《もんじゅろう》の軒端《のきば》が白々とみえる。
朝夕なれ親しんできた、その姿をみると、
座主の目は忽ち涙でかき曇ってしまい、
それからは二度と顔をあげて振り返ろうとしなかった。
澄憲法印は、余りにも痛わしい座主の嘆きをみかねて、
粟津《あわづ》まで送ってきた。
しかしどこまでも送っていくわけにもいかないので、
そこで別れを告げることにした。
澄憲の気持に感激した座主は、
年来、心中にあった一心三観の教義
——これは釈迦相伝の大事なもの——を伝授された。
もちろん、
澄憲はこれを大切に心中におさめて帰京したのである。
山門ではこの度の沙汰は不満どころか、
全山、憤慨の極にあった。
それも西光法師親子の告げ口のせいだとばかり、
西光法師親子の命をとり給えと呪い続けていた。
いよいよ座主が伊豆送りされた二十三日、
山門では、大会議が開かれていた。
「初代|義真《ぎしん》より今日まで五十五代、
座主が流罪になるなどという不法は行われなかった。
いかにこの様な乱世末世の時代とはいえ、
栄えある当山をないがしろにするやり方だ。
即刻座主をうばい返そう」
勢の良いこれらの言葉はまるで、はやてのように全山に拡がり、
われもわれもと、わめき声をあげて、
東坂本にかけ下りてきたのである。
ここで再び会議が開かれた。
「とにかくここにいる誰もが、粟津に行って、
座主を取り戻したいと思っているのは確かだが、
役人がついている以上、
果して無事に取り返せるかどうかが心配だ。
それには先ず、山王権現のお力を借りる以外に手がない。
もし我々を助けて、無事に座主を取戻せるものなら、
先ずここでその兆《しるし》をみせて頂こう」
という提案で、老僧達は一心不乱に祈り始めた。
すると、山門に使われている鶴丸《つるまる》という少年が、
急に体中から汗をふき出して苦しみ始めた。
「私に十禅師権現《じゅうぜんじごんげん》がのり移ったのです。
どんな事があっても当山の座主を他国へ追いやる事は許せません。
そんな事になっては、
私がこのふもとに神として祭られていても、
何の意味もない事です」
左右の袖を顔にあてはらはらと涙を流す。
この不思議さに、
「お前が本当に、十禅師権現だというのなら、
私共が証拠の品を渡すから、元の持主に返してみるがいい」
と老僧四、五百人の手にした数珠《じゅず》を、
床の上に投げあげた。
少年は走り廻って拾い集めると、一つの間違いもなく持主に返した。
ここに、全山の衆徒は勇気百倍し、
座主を取り戻す決意を新たにしたのである。
「これ程の神のご加護があるならば、恐るることはない。
命をかけても、座主を連れ戻そう」
海からも山からも、座主の跡を追いかけてくる、
雲霞《うんか》の如き衆徒の群に肝《きも》をつぶした護送役人は、
座主をうっちゃって、命からがら逃げ出してしまった。
🪷🎼活殺自在 written by ilodolly
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