福原に着いたのは、六月二十二日である。
一応 備中国《びっちゅうのくに》に流罪と決まり、
瀬尾太郎兼康が警備の任をおびてゆくことになった。
兼康は、とかく、
あとあと宰相から恨まれるのがこわいから、
かゆいところに手の届くような労《いたわ》り方で、
少将の心を何とか慰めようとするのであるが、
少将の方は一日として楽しまぬのである。
彼の心には、
父成親の行方だけが気にかかっていたのである。
その成親は、備前《びぜん》の児島が港に近いという理由で、
備前、備中の境、
有木《ありき》の別所《べっしょ》という山寺に移された。
この有木の別所と、少将のいる備中の瀬尾《せのお》とは、
僅か五十町足らずという目と鼻のあいだであった。
人づてにそのことを聞いた少将は、
どうにもなつかしくなって、ある日兼康に、
「父上のいられる有木の別所まで、何里程のところなのじゃ」
とたずねた。
本当の事をいってはかえって辛いだろうと思った兼康は、
「さあ、片道、十二、三日もかかりましょうか?」
と空とぼけて答えた。
少将は、
「日本は昔、三十三カ国であったのを、
後に六十六カ国に分けたのじゃ、
備前、備中も元は一つの国であった。
東国の出羽《でわ》、陸奥《むつ》もその伝で
二つに分れたと聞いている、
昔、実方《さねかた》中将が、奥州へ流され、
この国の名所、
阿古屋《あこや》の松を見ようと尋ね歩いたが見つからなかった。
たまたま一人の老人に出逢って、
当国の名所阿古屋の松を知っているか、と尋ねると、
それは大方、出羽国でしょう、という返事に、
国の名所が忘れられるとは世も末じゃ、
といって嘆くと老人は、
「貴方様は、
陸奥《みちのく》の 阿古屋の松に 木《こ》がくれて
いずべき月の 出でもやらぬか
という歌で、当国の名所をお尋ねになるのでしょうが、こ
れは実は、両国が一つであった時詠まれた歌で、
今では阿古屋の松は出羽国にござりましょう」
といったそうだ、実方中将はその後出羽国で、
松をご覧になったという。
「ところで貴方は、有木の別所まで、
十二、三日かかるというが、
筑紫《つくし》の大宰府《だざいふ》から都まで、
十五日でくるものを、いくら遠いといっても備前、
備中の間が十二、三日かかるわけがない、
せいぜい三日というところであろう。
それをあのように出たらめを教えるのは、
所詮《しょせん》、父の在所を私に教えたくないためなのでしょう?」
少将は二度とこの事を口にしなかった。
🌕🎼寂しい月夜 written by ゆうり
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