治承元年五月五日、叡山の座主〈ざす〉、明雲《めいうん》大僧正は、
宮中の出入りを差しとめられた。
同時に、天皇平安の祈りを捧げるために預っていた、
如意輪観音《にょいりんかんのん》の本尊も取上げられた。
更に検非違使庁《けびいしのちょう》を通じて、
神輿を振り上げて、
都へ押し寄せた張本人を摘発せよという命令もきていた。
こうした、矢次ぎ早の朝廷の強硬策は、
先の京の大火事に原因と理由があったろうが、
もう一つには、とかく、法皇の信任厚い西光《さいこう》法師が、
あることないこと、山門の不利になることばかりを、
後白河法皇に告げ口したためであった。
そのため、法皇は、ひどく山門に対する心証を害されているようだった。
唯ならぬ事態の変化を読み取って明雲は、
早やばやと、天台座主《てんだいざす》を辞任してしまった。
変って、鳥羽天皇第七皇子、覚快《かくかい》法親王が、
天台座主となった。
その同じ日に明雲は、前座主の職を取上げられた上に、
監視までつけられ、水さえもろくろくのまされず、
まるで罪人扱いであった。
十八日には、この明雲の処遇問題に就ての会議が開かれた。
誰もが、法皇の前をはばかって、
これという意見を出す者がなかったが、
一人、左大弁宰相《さだいべんのさいしょう》の
藤原長方《ながかた》がひざをのり出し、
「法律家の意見に依れば、死罪を一等減じて、
流罪ということになっている様でございますが、
とにかく、前座主、明雲大僧正は、
他の者とは事変り、その学問の深さ、
天台、真言両宗を会得した当代稀なる名僧で、
行ないは清浄、戒律を破った事のない徳高い人です。
その上、我々にとっては、お経の師でもあり、
高倉帝には法華経を授けられた師でもあります。
これ程の人を流罪にする事は、
決して穏便な事ではござりません。
何卒、
もう一度お考え直しになった方が良いのではありますまいか」
と、苦々しげな顔を一層硬ばらせている法皇の前で、
恐るる色もなく述べたてた。
一座の者も誰一人反対する者はなく、
我も我もと賛成したのだが、
しかし、法皇のお憤《いきどお》りは、
寵臣から焚きつけられているだけに根深いものがあり、
誰一人法皇の心を柔らげる事ができなかった。
清盛も、
何とか、法皇の気持をとりなそうと参内したけれど、
風邪《かぜ》気だからと体のいい玄関払いを喰らう始末で、
この一件だけは、徹頭徹尾、法皇の無理が通ってしまった。
ここに前代未聞の座主の流罪が決ったのである。
明雲大僧正は、僧籍をとりあげられ、俗人の扱いをうけ、
大納言大夫 藤井松枝《ふじいのまつえだ》という俗名をつけられ、
伊豆国《いずのくに》へ流される事になった。
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↑上の動画で一箇所 座主〈ざす〉を読み間違いしています。すみません🙇
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