豪気な帝であった故白河院が、
「賀茂川の水、双六《すごろく》の骰《さい》、
比叡の山法師、これだけは、いかな私でも手に負えない」
といって嘆いたという話がある。
山門の横暴振りは他にも伝わっている。
鳥羽院の時、白山平泉寺《はくさんへいせんじ》を比叡山が、
しきりに欲しがったことがあった。
余り無理な願いであったから、あわや、却下と思われたが、
大江匡房《おおえのまさふさ》が、
法皇を諫《いさ》めて、
「お断りになってもようございますが、
もしも、山門の僧兵共が、神輿《みこし》を先頭に攻めてきたら、
いかがなさいますか、面倒な事になるかも知れません、
それならいっそ、聞き入れてやった方が」
と、山門に刃向う、ばからしさを説いたので、
法皇も気が変り、
「全く、山門が相手では、どうしようもない」
といって許したのである。
山門の威力に就ては、こんな話もある。
それは、嘉保《かほう》二年の事であるが、
美濃守《みののかみ》源 義綱《よしつな》という男が、
叡山の僧であった円応を殺した事件があった。
早速、叡山側から、日吉《ひえ》の社司、延暦寺の寺官等、
三十余人が、訴状を持って、
当時の関白、藤原 師通《もろみち》の許へ脅迫にやってきた。
関白は、権少輔頼春《ごんのしょうよりはる》という侍に命じて、
武力で追っ払えと命令を下した。
突然の武力の応酬に、殺される者、傷を負う者が続出、
山門の使いは、ほうほうの態で逃げ帰った。
これを聞いた、山門の幹部達が事の子細を、
朝廷に直訴にやってくると聞いた関白は、
再び、武士、検非違使《けびいし》に先手を打たせ、
都に入らぬ先に、追い返してしまった。
いよいよ怒った山門の衆徒達は、
今は、唯、憎い関白を、祈り殺せとばかり、
七社の神輿を、根本中堂《こんぽんちゅうどう》に振上げて、
その前で七日間、大般若経《だいはんにゃきょう》を読み続けた。
最後の日になると、
仲胤法印《ちゅういんほういん》という僧が立ち、
おそろしい声で、
「われらの神よ、何卒、御二条《ごにじょう》の関白に、
かぶら矢を当てて下さい。何卒お願い申します、
八王子権現《はちおうじごんげん》の神よ」
といって願った。
その晩不思議な夢を見た人があって、八王子権現の社から、
かぶら矢の放たれる音がしたとみる間に、
京の御所を指してとんでいったというのである。
ところがもっと不思議な事には、
翌朝、関白の家の格子《こうし》をあけると、
今、山からとれたばかりとしか思えない樒《しきみ》が、
一枝置かれていた。
従来、不吉な木である樒が関白の家の前にあったことは、
たちまち、京都中の評判になったが、
その噂も広まらぬ先に関白は重い病にかかり、
明日をも知れぬ身となってしまった。
今更、山王の祟《たた》りの恐しさをまのあたりにみて、
関白の母である摂政藤原 師実《もろざね》の妻は、
もういても立ってもいられない気持である。
ある日こっそり、身をやつして日吉の社にこもって、
七日七晩、祈り続けた。
願が、かなえられた暁には、芝田楽《しばでんがく》を百回、
百番のひとつもの(祭礼の行列で、一様の装束をしたもの)、
競馬《くらべうま》、流鏑馬《やぶさめ》、
相撲《すもう》をそれぞれ百、
仁王講《にんおうこう》を百座設け、
薬師講《やくしこう》を百座、
親指と中指の長さの薬師百体、等身大のもの百体、
並びに釈迦《しゃか》、阿弥陀《あみだ》の像を
それぞれ造立《ぞうりゅう》寄進するという条件であった。
その上、心中には、尚《なお》ひそかに、願立てたことがあったが、
それは、内深くひめて表には出さないでいた。
🪷🎼#呪縛 written by #YOSHIHIRO
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