五月二十七日、三井寺攻略の軍が起された。
奈良興福寺と三井寺互に呼応して謀叛の宮を受け入れ、
あるいは武装して出迎えるなど、
これは朝敵の行為であると平家は断じ、
共に討つべしとの声が高まったが、
まず三井寺からと軍が編成された。
大将軍は頭中将重衡、副将軍に薩摩守忠度、
その勢合せて一万余騎、三井寺向って進発した。
寺の衆徒一千余人、死を決してこれを迎えた。
逆木《さかもぎ》を設け、関所を数多くつくった。
戦は朝六時から矢合せで始められ、
十分の一の小勢ながら死物狂いで防戦する三井寺の衆徒に
平家も手をやいた。
日が暮れ夜に入っても戦は激しくなるばかり、
すでに三百余人が討死した寺側の
防備のうすいところを狙って夜襲を敢行した攻略軍は、
遂に寺に攻めこんだ。
寄手の兵が寺の坊という坊に火を放ち始めれば、
たちまち三井寺は巨大な焔に包まれた。
生き残った衆徒は四散し、
寺の火災はいつ止むとも知らなかった。
これで灰燼《かいじん》に帰したのは、
本覚院、成喜院《じょうきいん》、真如院、鐘楼、
護法善神の社壇、新熊野の宝殿など、
もろもろの堂舎塔廟六百三十七むね、
それに大津の民家一千八百五十三家、
この火災で智証大師が唐からたずさえた所の一切経七千余巻、
仏像二千余体は灰となった。
三井寺は天智天皇の御願寺《ごがんじ》、
その後智証大師がここを伝法|灌頂《かんじょう》の霊所として
園城寺《おんじょうじ》を建てた尊い場所である。
が、今はもう焼跡しかない。
修行の鈴の音も絶え、仏前にそなえる水を汲む人影もない。
三井寺の首長円慶法親王は別当を免ぜられ、
役僧も免官、堂衆三十四人は流罪に処せられた。
このような国土の騒ぎ、天下の乱れはただごととは思われない。
平家の世も末になる前兆か、
と人々はひそかに噂し合っているが、
噂はもう高声で話される始末である。
🔥🎼#大河 written by #伊藤ケイスケ
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