南殿にきた頼政は、
猪早太をかたわらに控えさせると空を仰いだ。
静かに晴れた夜空である。
変化飛来の噂など信じかねる穏かな夜であった。
変化退散の仕事は僧侶にあるはずだ、弓矢とるこの身は、
などと頼政の心中には恐らく不平が渦巻いていたであろう。
夜は更けていった。
午前二時近くか、風のないのに木々の梢が立ち騒ぐ。
俄かにきっとなって御殿の上を仰いだ頼政の顔は蒼白かった。
噂にたがわぬ黒雲ひとむら三条の森から飛び来り、
ぴたりと御殿の空を蔽う。
鋒矢弓につがえて黒雲を凝視すれば、
その中程あたりに怪しき物の姿が隠顕する。
灯のもれる主上の室ではお苦しみの声が高まるような気がする。
やがて物音は絶えた。
陰鬱な風が音もなく頼政の衣を吹きぬけたとも思えた。
かっと見開いた頼政の目に
化性のおぼろな姿が次第に輪郭をとってきた。
射損じたらわが命はないであろう。
彼の弓は満月のように引きしぼられた。
南無八幡大菩薩、と心に唱えれば鋒矢は弦を離れた。
弦が鋭く鳴った。
黒雲の中に目にも止まらず吸いこまれて行く鋒矢が消えたとみるや、
一声異様な叫びがひびき、どうと地に落ちてきたものがある。
してやったりと叫んだのは頼政である。
ぱっと走り寄った猪早太、
もがく化性のものをおさえるや刀で柄も通れと突き刺した。
一度、二度、早太の刀は九度まで獲物を貫いた。
「頼政仕止めたり」
の高らかな声に、
人々は手に手に炬火《かがりび》を持って駆けよってきた。
恐るおそる眺めると、見たこともない異形の化物である。
頭は猿、胴は狸、尾は蛇であり、四つ足は虎の如く、
鳴く声は鵺《ぬえ》に似ていた。
御悩み快癒された天皇は、
喜びのあまり獅子王《ししおう》という剣を頼政に賜った。
宇治左大臣頼長がこれを頂いて御前の階段を半ばまで降りたとき、
ほととぎすが鳴いて空を渡った。
頼長は、しばらく足を止めたが、
『ほととぎす名をも雲居にあぐるかな』
と突然詠みかけた。
皇居の空に名をとどろかした頼政をほととぎすにかけたのである。
これを聞くと頼政、つと右膝をつき、
左の袖をひろげると月を斜めに見上げた。
『弓張月のいるにまかせて』
とよどみなく下を詠む。
月にかけたまことに謙虚な態度である。
居あわす人々は文武にすぐれた頼政に感動したのであった。
また応保の頃、二条院が位にあったとき、
鵺という怪鳥が宮廷で鳴き、天皇をひどく悩ましたことがあった。
再び頼政が召された。
時五月二十日すぎの夜、ぬばたまの闇である。
弓を持った頼政が久しく待つと、鵺は一声高く鳴いた。
所在を確めようと空を見上げたが鵺は二度と鳴かなかった。
御殿の屋根さえ夜空に溶けこむ闇夜である。
さすがの頼政も弱ったが、
やがて肯くと鏑矢《かぶらや》を弓につがえた。
先程鳴いたと覚しき闇空にひょうと放った。
うなりをあげて飛ぶ鏑矢に驚いたか、
果して鵺は高く鳴いて飛びあがる。
間髪を入れず頼政の弦から小鏑矢が鋭い音をひいて飛べば、
鵺はばったり落ちる。
どっと歓声が宮中にわいた。
天皇は大層喜ばれて頼政に御衣を賜ったが、
彼の肩に御衣を着せた大炊御門公能《おおいのみかどのきんよし》は、
『五月《さつき》やみ名をあらわせるこよいかな』
と詠みかけた。
『たそがれ時も過ぎぬと思うに』
こう答えたのは頼政である。
歌にもすぐれていた彼の面影を伝えるものであろう。
頼政はその後伊豆国を賜わり、
その子仲綱を伊豆の受領《ずりょう》として自分は三位にのぼり、
丹波国の五箇の荘、若狭の東宮川《とうみやがわ》などを所領として、
誰もが晩年は安らかに過すと思っていたが、
このたびの謀叛で自分も子孫も亡ぼしてしまったのである。
🏹🎼#大妖 written by #藍舟
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