山門から拒否同様の返事を受けた三井寺衆徒は、
これで孤立するのではないかとの不安におののいていたが、
興福寺からの返書は大いに気勢を上げさせた。
それほどこの返書は激越な文句で綴られていたのである。
「興福寺より園城寺へ返事申す。
当寺一味同志決議したこと左の如し。
ともにわれわれは釈迦一代の教文を奉ずるもの、
喜んで貴寺へ合力を誓うものである。
およそ清盛入道は平氏のかす、武家のごみと申してよい。
彼はもとより賤しい身の出であって、
かつては名もない若侍さえ彼に仕えるのを恥じたものであったが、
今や一族を貴官に列し、百官を下僕のように召し使い、
王侯公卿でも意のままに捕縛する暴虐を行なっている。
家代々の領地、荘園を奪うなど、
その例数えるいとまがないほどであるが、
去年の冬十一月には関白を配流されたのである。
この古今に例のない暴悪に、
われらは賊徒として彼をその罪に問うべきであったが、
あるいは神慮ととなえ、
あるいは勅旨と称して偽りの名分を立てるなどで、
われわれも隠忍せざるを得なかった次第。
ここに平家ども御所を包囲したところが、
春日大明神ひそかに姿を現して高倉宮を貴寺に送り届けたのは、
王法未だ衰えざる兆とみるべきものである。
貴寺が身を捨ててご守護申し上げるのは喜ぶべきこと、
当寺も合力に全力をあげるものである。
当寺すでに十八日朝大衆を集め、
諸寺に檄を飛ばし末寺に指令を与えるなど、
合戦の準備を行なっていたところへ、
貴寺の芳翰《ほうかん》を得たのであるから、
われら衆徒一同の年来の不平霧消 士気大いにあがった。
われら協力すれば、
邪臣をうち払うことも難からずと信じている。
貴寺親王を守りて、
われらの進発の報を待たれたい。
治承四年五月二十一日 大衆一同」
まさに会心の返書である、
三井寺衆徒が何れもくり返しこれを読んだその心は
察するに難くはない。
夜を日に継いでの戦への準備もはずんだ。
🌹🎼雷鳴の閃き written by こーち
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