「隠忍もこれまでじゃ、奈良を討て」
たちまち大軍が揃えられ、
大将軍に頭中将重衡《とうのちゅうじょうしげひら》、
中宮亮通盛《ちゅうぐうのすけみちもり》が任ぜられて、
総兵力四万余騎奈良へ実力行使と進発した。
一方奈良の大衆老若合わせて七千余人、武具に身を固めると、
奈良坂、般若寺の二カ所の路に掘割を作り、
楯垣を並べ、逆木《さかもぎ》を引いて防備を固めて待ち受けた。
平家は四万余騎を二手に分け、奈良坂、般若寺からの挟撃態勢をとると、
どっと鬨《とき》の声を上げて一気に攻めこんだ。
奈良の大衆は必死に防いだが、こちらは徒歩、相手は騎馬である。
しばし応戦するうちに崩れ出した。
騎馬が縦横に駆け廻れば、大衆の大半は討ちとられてしまった。
この日朝六時の矢合わせから一日戦ったのであるから、
大衆必死の防戦は相当手強かったわけである。
日が落ち夜になると、奈良坂、般若寺の二つの城郭は時を同じうして破れた。
勢いに乗る平家は怒濤のように攻めこんでくる。
この日衆徒の一人、坂野四郎永覚《さかのしろうようがく》という剛の者、
弓矢太刀とれば十五大寺に並ぶ者なしといわれていた勇猛な僧であったが、
萌黄縅の鎧に黒糸縅の腹巻を重ね、
帽子兜《ぼうしかぶと》に五枚兜の緒《お》をしめ、
白柄《しらえ》の大長刀、黒漆の大太刀を左右の手に握り、
同宿の僧十余人を前後左右にひきいると、
手蓋《てがい》の門より打って出た。
剛力に任せて水車のように打ちふるう大長刀で馬の足を薙《な》がれた平家の勢少くなく、
討ち果された兵も多く、永覚はしばし少勢でここを支えていたが、
新手を次々にくり出して襲いかかる寄手のために同宿のものはみな討ち死し、
やがて、彼も南をさして唯、一人落ちていった。
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