頼政の弁は熱をおびてきた。
あたかも諸国に兵を蓄えてひそむ源氏の網の目に、
平家がしぼられて行くような感さえ、
宮に与えたかも知れぬ。
頼政は語調を変えてつづけた。
「われら源家のもの、朝敵を武力で平らげ、
宿望を達した点においては、平家に一向劣りませぬ。
が、いまは宮もご覧の有様、源平は今や雲泥のへだたり、
主従の間柄より劣るのが現状です。
国にまいれば国司の家来、
荘園では預所に使われている始末、
京にあれば、
公事《くじ》や雑事《ぞうじ》に追い立てられて、
心の安まる暇《ひま》もない日を送っているのです。
ひるがえって今の世を見ますなら、
平家の威に服しているように見えるのは
表面だけのことです。誰しもその心中、
折あらば平家に一太刀というのが源家一統の悲願、
この頼政も人後に落ちませぬ。
もし宮が思し召し給うて令旨を下されるなら、
雌伏する諸国の源氏は令旨を奉じて
夜を日についで京に馳せ参ずるは必定、
平家滅亡に時日は要しますまい。
その儀なれば、この頼政、年こそ寄りましたが、
あまたの若き児、孫もござります故、
引具して第一番に御許に参じ奉る次第」
宮の胸中は千々に乱れた。
軽々しく決するには事は余りに重大である。
筆と笛を愛して、風雅の道に生を終るべきか、
それとも剣を選んで帝位を窺うべきか、
これはまた生か死かに通じよう。
しばし承引の返事もなく思いわずらう宮の胸中を
一条の光芒《こうぼう》が閃いた。
相人《そうにん》の上手《うま》いといわれた
少納言|惟長《これなが》のことである。
惟長は阿古丸《あこまる》大納言宗通の孫、
備後前司季通《びんごのさきのつかさすえみち》の子だが、
人相を卜《ぼく》すること当時並ぶ者なしといわれ、
人よんで相《そう》少納言と敬された公卿であったが、
相少納言は高倉宮を見て恐るる色もなく言下に答えた。
「皇位に即かせ給うべき御相《おんそう》、
天下のことお諦め給うな」
今、宮の胸によみがえったこの言葉は、
源三位頼政の進言と相俟《あいま》って、強い啓示となった。
さては、
かくなすべしとの天照大神のお告げに違いなしと宮は信じた。
承引の言葉を与えた宮の顔は頼政の眼には蒼白に光って見えた。
ことは隠密裡に運ばれた。
令旨を奉じて東国へ下る密使は
新宮《しんぐう》の十郎|義盛《よしもり》ときまった。
十郎義盛は蔵人に任ぜられ、行家と改名した。
行家は四月二十八日、ひそかに京を立った。
近江国より始めて、美濃、
尾張の源氏どもに令旨を伝達して廻るうちに、
五月十日には伊豆の北条、蛭《ひる》が島についた。
ここの流人《るにん》、
前右兵衛佐頼朝《さきのうひょうえのすけよりとも》に、
宮の令旨をとり出して奉った。
さらに頼朝の兄、
信田三郎先生義憲
《しだのさぶろうせんじょうよしのり》を尋ねて
信田《しだ》の浮島へ下り、
木曽冠者義仲も甥《おい》なので令旨を伝えようと、
行家は中山道へ赴いた。
🌹🎼交戦 written by ゆうり
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