高倉上皇が厳島にお着きになったのは、
三月二十六日、
清盛入道相国が最も寵愛した内侍の家が仮御所となり、
なか二日の滞在中には、
読経の会と舞楽がにぎやかに行なわれた。
満願の日、
導師三井寺の公顕《こうげん》僧正は高座にのぼり、
鐘を鳴らして表白を声高らかに読みあげていわく、
「九重の都を出でられ、八重の潮路をかきわけて、
ここまでお出でになられた陛下の御心は
かたじけない極みである」
この神前に捧げられた言葉には、
上皇を始め諸臣みな感激した。
そのあとで上皇は
末社にいたるまで隈なく御幸になり、
また厳島の座主尊永を
法眼《ほうげん》の位に上らせるなど、
神主たちの位階昇進を行なわれたが、
入道相国の心もこれでやわらぐかと思われた。
上皇は、二十九日、
美しく飾られた船で還御されようとしたが、
途中、烈風にあふられて海上が荒れたので、
厳島のうちの蟻《あり》の浦まで漕ぎもどられた。
波風静まったその日の夜おそく再び船を出され、
備後国|敷名《しきな》の港に着かれた。
波路を心も晴れやかに京へ向う上皇の一行は、
四月二日備前の児島、
五日には播磨《はりま》の国山田に着かれ、
ここから御輿で陸路福原へ、
途中、鳥羽殿には寄られず、
まっすぐ公卿殿上人お迎えの中を
清盛邸へ無事に帰られたのであった。
四月二十二日、
新帝安徳天皇の即位式が行なわれたが、
先年の火災で焼失した大極殿が使えないので、
紫宸殿《ししんでん》が評議の末、
式場にあてられた。
即位式には平家一門こぞり参列したが、
重盛の息子たちは喪中なのでひきこもっていた。
蔵人 衛門権佐定長
《えもんのごんのすけさだなが》が、
とどこおりなくめでたく終った新帝の即位式の有様を、
和紙十枚ばかりに書いて、
清盛の奥方、八条の二位にうやうやしく奉ると、
奥方は、
これをくり返しよまれては何時迄も
幸福そうな笑《えみ》を顔に浮べていた。
🌊🎼#海底探索 written by#Heitaro Ashibe
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