一戦も交えず敗走した平家の大将軍権亮少将維盛が、
福原に面目ない顔で現れたのは十一月八日である。
報を受けていた清盛は激怒した。
「武人たるもの何たる醜態か。恥を知れ、きゃつらの顔など見とうない。
維盛は鬼界ヶ島へ流せ。忠清は死罪にせよ」
といい捨てると、いかなる弁解も受けつけなかった。
そこで翌日平家の侍ども老若数百人が集って、忠清死罪の件について評定が行なわれた。
席の空気は忠清に同情的であった。
主馬判官盛国《しゅめのはんがんもりくに》進み出ると、
「忠清が卑怯者という話は昔から聞いておりません。
たしか彼が十八歳の時と思いますが、
鳥羽殿《とばどの》の宝蔵に五畿内随一といわれた賊二人が逃げこんだことがありました。
この時誰も押入って賊を搦《から》め取ろうというものは一人もなかったのですが、
忠清ただ一人立ち向い、一人を討ち取り、
残る一人を搦めとって、大いに勇名をはせたものでした。
彼の今度の不覚は彼の臆したためとは思えません。
か尋常でないことがあったのです。
これにつけてもよくよく兵乱鎮圧のご祈祷があるべきと存じます」
こんな次第で、どうやら忠清は死罪を免れた。
十一月十日、この会議の翌日任官が行なわれて、
維盛は右近衛《うこんえの》中将に昇進した。
人々は何が何だかわからなかった。清盛の言葉も当にはならぬ、
功なくして恩賞ありとは何事か、と誰もが首をかしげていた。
十一日、清盛入道の四男頭中将重衡が左近衛権《さこんえのごんの》中将に昇進した。
十三日、福原に新皇居が落成して天皇が移られた。
大嘗会《だいじょうえ》が行なわれるはずであったが、新都には大極殿も、
即位の大礼を行なうべきところはなく、清暑堂もないので神楽《かぐら》を奏する場所もない。
そこで今年は新嘗会《しんじょうえ》と五節だけを行なおうと公卿会議で決まり、
新嘗の祭は、旧都京の神祇宮で行なうことになった。
五節というのは、天武天皇の御代、
月白く冴《さ》えた嵐の夜、天皇が心すまして琴《きん》を弾かれていると、
これに感じた天女が天降り、五度び袖をひるがえして舞ったという、
これが五節の初めである。
ともかく、東国に燎原《りょうげん》の火のごとく、源氏はその数を増す状勢にあって、
平家は恩賞を行ない、公卿は先例と古式を墨守して儀式の形骸をとりつくろうのに忙がしかった。
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