さて、昔は朝敵を討ちに都から立つ将軍には節刀を賜うのが例であったが、
こんどの頼朝追討には、讃岐守《さぬきのかみ》の正盛が、
前対馬守源義親《さきのつしまのかみみなもとのよしちか》追討の例に従い、
鈴だけが下賜され、皮の袋に入れて雑兵の首にかけさせた。
昔、朝敵を討ちに行く将軍には三つの心得が必要とされた。
第一に節刀を賜わる日は家を忘れ、第二に都から出る日は妻子を忘れ、
そして戦場ではわが身を忘れる、この三つであるが、
このたびの征討の大将軍維盛も、
副将軍の忠度も、恐らくこの心得を胸に刻んでいたであろう。
武士の常とはいえ、哀れなことである。
軍勢は九月十八日福原、十九日京都につき、その翌日東国へ向って出陣した。
すでに戦の旅路である。平安の身で帰れるとは限らぬ。
追討の軍は野を踏み山を越え、河を渡った。
荒原の夜露とともに眠り、高峰の苔に枕した。
こうして都を立ってからほぼ一カ月がすぎて、
十月十六日に駿河国|清見《きよみ》ヶ|関《せき》に着いたが、
遠征の途中の国々で兵を集めたので、清見ヶ関では七万余騎を数えた。
先陣は蒲原《かんばら》、富士川に進み、後陣はまだ手越《てごし》、
宇津谷《うつのや》にひかえていた。
大将軍維盛は侍大将の上総守忠清を召すといった。
「維盛が思うには、これから足柄の山を越え、広い土地に出て決戦するのがよいと思う」
「お言葉ではございますが、入道殿福原を立つときに、
いくさのことは忠清に任せよと仰せられました。
ご覧うじませ、伊豆、駿河の軍勢が来るはずでございましたが、未だ一騎も見えませぬ。
味方の軍勢は数こそ七万余騎でございますが、道中の国々から駆り集めた武士たち、
今は人も馬も疲れ果てております。
関東八カ国の武者は何れも兵衛佐頼朝についておりますから、
その数何十万騎になるか存じません。いまはただ富士川を前にして陣をしき、
味方の兵力をふやして戦われるのが得策と存じます」
といえば、維盛も止むなくその言葉に従った。
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