新都福原に強引に都を移し、内裏殿などを急造してはみたものの、
福原の人気は悪かった。
それに地形も宜しくない。
北に山々が高くそびえ、波の音は騒がしく、潮風はきびしい。
新院もそのためかご病気がちである。
君も臣もこの地を嘆くことしきりであったが、
比叡山や興福寺の諸寺諸社からの訴えも度重なれば、
さしも横紙破りの入道清盛の心も折れてきた。
「京に都をもどす」
というので、十二月二日の日、都がえりとなった。
京に帰るというので人々は急ぎ争って上れば、
もはや福原のことなど口に出す者もいない。
中宮、一院、上皇が立てば、摂政、太政大臣以下の卿相たちつき従う。
さる六月が都移しであったから新都は凡そ半年間しか保たなかった訳だが、
困ったのは一般人である。
大苦労の末京の家を壊して運び、この地で建て直したりしたのに、
いままた気が狂ったような都がえりである。
家も財も捨てて京に上るものは少なくなかった。
法皇は六波羅殿へ、新院は池殿へおいでになった。
天皇は五条の内裏へ行かれた。公卿たちの宿泊所も急のこととてないので、
八幡、賀茂、嵯峨《さが》、太秦《うずまさ》、西山、東山などにゆき、
御堂の廻廊や神社の拝殿などに泊っていた。
ところで今度の遷都の真意は一体何であったか。
京は比叡や奈良が近く、何かというと日吉《ひえ》の神輿《しんよ》とか
春日の神木《しんぼく》をかつぎ出して要求を通そうとするのがうるさい、
その点福原は山河をへだてて距離も離れているので、
坊主神官たちの邪魔はあるまいという点にあった。
これは入道清盛の独自の意見だといわれている。
さて、この十二月二十三日、近江源氏が背いたので追討の軍が出された。
大将軍に左兵衛督知盛《さひょうえのかみとももり》、
副将に薩摩守忠度が命じられ、
軍勢三万余騎をひきいて近江国に進発した。
山本、柏木、錦織《にしごり》などという手強い源氏の兵と戦を交えたが
何れも討ち破って攻め落し、そのまま軍は美濃、尾張を越えて進んだ。
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