このとき、大将軍頭中将重衡は般若寺の門の前に立って下知した。
「闇《くら》し、火をつけよ」
命をうけた播磨国の住人、
福井《ふくい》の荘《しょう》の下司《げし》次郎大夫友方、
楯を割るとこれに火をつけ松明《たいまつ》として付近の住家に火を放った。
時に十二月二十八日、折からの烈風に火は煽られ、
火元は一カ所だったにもかかわらず、多くの寺院に次々と飛火した。
寺の大衆のうち名を惜しむ者は、
あらかた奈良坂、般若寺で倒れ、歩行できるものは吉野、十津川へ落ちていったが、
歩けぬ老僧、少年僧、女童《めわらべ》たちは逃げ場所を求めて大仏殿の二階や、
山階寺《やましなでら》に避難した。
特に大仏殿の二階に逃げこんだもの、老僧女子小供千余人もいたが、
助かるかも知れぬというので階段を引き上げ、敵の昇るのを防いだ。
ところが敵は昇らなかったが、猛火がこの大仏殿に燃え移った。
火の手は大仏殿を包んだとみるやどす黒い煙が噴き出し、
やがて紅蓮《ぐれん》の焔をあげた。
大仏殿の二階で全く逃げ場がない避難者たちの喚き叫ぶ声は、
夜空に凄惨《せいさん》なひびきをつたえた。
大焦熱の地獄、焔の底の罪人も、
これほどとは思われぬ阿鼻《あび》の地獄であった。
藤原氏|累代《るいだい》の寺、興福寺は焼け落ちた。
仏法と共に日本に最初、渡来した釈迦の像、土中から出た観世音像、
瑠璃を並べた四面の廊下、朱丹《しゅたん》を交えた二階の楼、
九輪空に輝いた二基の塔などすべて煙と消えた。
聖武帝建立の東大寺も灰となった。
生不滅、実報《じっぽう》寂光《じゃっこう》の生き身をかたどり、
天皇自ら磨かれたという金銅十六丈の廬遮那仏《るしゃなぶつ》も
首が焼け落ちて大地に転がり、身体は熱に鎔《と》けて醜い青銅の堆積とはなった。
仏を焼き、寺を焼いた炎は虚空に舞いあがり、
煙は天に満ちて見る人の目をそむけしめ、聞く人を呆然《ぼうぜん》たらしめた。
法相《ほっそう》三論の経典も一巻残らず兵火に消えた。
炎の中で焼け死んだ者は、
後で数えれば大仏殿二階で一千七百余人、山階寺で八百余人、
その他合計すれば三千五百余人である。
戦場で討たれたものは千余人、
山門大衆の半数は死んだのである。
平家はそのうち少数の首を般若寺の門にかけ、また首を京に持ち帰ったのであった。
大将軍頭中将重衡は翌二十九日京に帰り、入道に詳細を報告した。
清盛は、よくやった、これで外の大衆も考えるであろうと一人相好を崩していた。
しかし、中宮、一院、上皇は、
「たとえ悪僧を滅ぼしても、多くの寺院を焼くことはない」
と嘆くことしきりであった。
公卿会議も開かれたが、
最初朝敵の首は都大路を引き廻し獄門にかけるべしなどという勇ましい意見もあったが、
東大寺、興福寺焼失の惨状を聞くに及んでは、もはや誰一人これをいい出す者もなく、
いつとはなく沙汰止みとなって、衆徒の首はあちこちの溝、掘割に捨てられた。
こうして兵乱に明け暮れた年も終り、治承五年を迎えた。
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