「……ふ、ふふふふ」
つい、又太郎は、
独り笑いを杯に咽《むせ》ばせてしまった。
と共に、酒に酔った犬飼の手綱《たづな》を抜け、
いつのまにか側へ来て、
自分の足もとを嗅いでいた紀州犬の鼻ヅラを見たので、
いきなり足をあげて蹴飛ばした。
——それは、まったく彼の意識なき衝動か、
酒興《しゅきょう》の発作ではあったらしいが。
人間どもに仕えられて、
近ごろ驕《おご》っていた犬である。
けんっ——
と、するどく悲鳴して、四肢を退くと、
怒りを眸に示して、ひくく唸《うな》った。
犬以上にも驚いたのは、
飲みはしゃいでいた人間どもの方である。
場所はせまい小酒屋の土間。
「——すわ」
といっても、
小早い身うごきは出来ッこない。
どっと、壁を背にした空間を前に作って、
さて、
あらためて一せいに相手の在る所を睨《ね》めすえた。
「やいっ。——蹴ったな、蹴りおったな。
神宮の禰宜《ねぎ》どのから、
鎌倉殿へ御覧に入れようがため、おれどもが預かって、
道中これまで護って来た大切な、おん犬をば」
宰領《さいりょう》は、足軽頭か。
太刀のつかを叩いて、犬の代りに、吠えている。
「は、は、は、は。……おん犬とは」
またしても、又太郎が嘲笑するので、
右馬介は気が気でなく、
酒板の下で、その袖を、引っ張った。
そして、自分が詫《わ》びようとでも思ってか、
床几の腰を浮かしかけると、
「右馬介、おまえは黙っておれ。
わしのしたことだ、わしが物申す」
すると、返辞は、足軽頭が奪い取って。
「なに、物申すだと。
御献上のおん犬に、土足をくれて、なんの言い条がある」
「ある」
又太郎は、残りの一杯を、ゆっくり飲みほした。
「犬に訊け。蹴ったのではない。
足で頭をなでてやったまでのことだ」
「ば、ばかな言い抜けを。蹴られもせぬおん犬が、
なんであんな声を立てるものか」
「いや、獣《けもの》がしんによろこぶと、
ああいう声を出すものだ」
「こいつめが、人を小馬鹿にするもほどがある。
酔うての上の悪戯《わるさ》かと思えば、
さては故意にやったな。
検断所《けんだんじょ》へつき出してやる。
さあ立て。者ども、そいつらを引っぱり出せ」
「まあ、待て、
わしの言が、うそかほんとか、見た上にしても遅くあるまい。
これこれ、そこな犬殿の家来。
もいちどわしの前へそれを曳いて来い」
「どうする」
言ったのは、大勢の端で、
犬を抑えていた布直垂《ぬのひたたれ》の犬使いらしい男だった。
「——おれが抑えていればこそだが、押ッ放したら、
汝《わ》れのどこへ噛ぶりつくかも知れぬぞよ」
「おおよいとも。もいちど足であやしてやる。放せ」
放されたが、犬は一気にバッとは来ない。
要心ぶかく、のそのそと近づいた。
そして、底知れぬ獰猛《どうもう》さを
雪白の毛並みにうねらせた。だのに又太郎は、
われから革足袋《かわたび》の片方を上げて、
彼の鼻ヅラへ見せている。
犬は疑った。ちょっと、姿勢を低くした。
が、それは支度か、いきなり桃色の口をかっと裂き、
相手の足首へ咬《か》ぶりついた。
咄嗟《とっさ》に、又太郎はその足を引くことなく、
逆に、足のツマ先へ槍のごとき迅さを加え、
犬の喉ふかくまで突ッこんだ。
それは、あるまじき光景だった。
異様な絶叫が人の耳を打ち、
白い尾も胴体も意気地なくころがッた。
いや、それも見ず、
又太郎は小酒屋を飛び出していた。
幾人かを刎《は》ね飛ばした覚えはある。
だが、振向いて後ろへ呼ぶには、数百歩の宙を要した。
🍶🎼酔いどれふらふら written by ゆうり
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