明けて、ことしは元亨《げんこう》二年だった。
ただしく過去をかぞえれば、武家幕府の創始者、
頼朝の没後から百二十二年目にあたる初春《はる》である。
又太郎は一室で、清楚な狩衣《かりぎぬ》に着かえ、
烏帽子も新しくして、若水を汲むべく、
庭の井筒《いづつ》へ降り立っていた。
彼の伯父なる人とは、六波羅評定衆の一員、
上杉|兵庫頭《ひょうごのかみ》憲房《のりふさ》である。
ここはその邸内だったのはいうまでもない。
「アア都は早いな」
井筒のつるべへ手をかけながら、
又太郎はゆうべの酔の気《け》もない面《おもて》を、
梅の梢《こずえ》に仰向けた。
「——国元のわが家の梅は、まだ雪深い中だろうに。
……右馬介、ここのはもうチラホラ咲いているの」
「お国元のご両親にも、今朝は旅のお子のために、
朝日へ向って、ご祈念でございましょうず」
又太郎に、返辞はなかった。
彼も若水の第一をささげて、
まず東方の人に、拝《はい》をしていた。
彼にとれば、ここは旅先の仮の宿所だ。
ひまで、のんきで、身をもてあますほどである。
が、伯父の上杉憲房には寸暇も見えない。
元日の朝、
大書院から武者床《むしゃゆか》を通した広間で、
家臣の総礼をうけたさい、
共に屠蘇《とそ》を祝ったりはしたが、
あとは顔を合せる折すらなかった。
次々の賀客を迎え、客がとぎれると、
彼自身、
駒飾《こまかざ》りした騎上の人となって出て行くし、
夜は夜で、探題からの迎えがくる。
「いや、六波羅勤めも忙しいものだな。
伯父上が口ぐせに、帰国の日を待つお気持ちもわかる」
二日の昼。
彼は一ト綴《とじ》の和歌の草稿をふところに、
冷泉為定《れいぜいためさだ》の四条の住居を訪ねていた。
為定は後に“新千載和歌集”を撰した当代著名な歌人である。
東国育ちの武家の子又太郎にしては、
そんな文雅な人を訪うのはためらわれたが、
これは母との約束だった。
元来、
母系は勧修寺家《かんじゅじけ》の公卿《くげ》出であったから、
彼の母もわが子をただあじけない坂東骨《ばんどうぼね》一辺の
粗野な武人には仕立てたくはなかったのだろう。
兵家必修の日課のほか、
つねづね彼へ和歌の学びをもすすめていた。
そしてこんどの上京には、
ぜひ冷泉どのの門をたたいて、
末長く詠草を見ていただくようにお願いせよと、
手紙まで持たせられて来たのであった。
折よく、在宅していた為定は、
「おう、めずらしいお文」
と、手にした仮名文《かなぶみ》をなつかしみ、
さてまた、これがその人の子息かと、
ひと間のうちに、しげしげと見て。
「ほ。其許《そこもと》がこのお便りにある
足利清女《あしかがせいじょ》どのの御嫡男かの」
「いえ……」
と又太郎は、うすらあばたの頬を、どぎまぎ紅くして、
さらに居ずまいを改めた。
「——早逝《そうせい》でしたが、兄義高があり、
私は次男にございまする」
「が、まあ、兄君がおわさねば、
其許がお世継じゃろうが。して御官位は」
「申しおくれました。
——下野国《しもつけ》足利ノ庄の住《じゅう》、
貞氏《さだうじ》の次男、
利又太郎|高氏《たかうじ》といいまする。
十五で元服の折、治部大輔《じぶのたゆう》、
従五位下をいただきましたが、何もわからぬ田舎者で」
「御卑下《ごひげ》にはおよばぬ」
為定は、うちけして。
「下野足利ノ庄といえば、天皇領の御住人」
「はい。足利ノ庄の内には、世々、八条院の御旧領があり、
それが今上《きんじょう》の御料に移されておりますゆえ、
畏《おそ》れあれど、申さばわが家は、
朝廷の一|被官《ひかん》でもござりまする」
「それ御覧《ごろう》じ。
お血筋といえば北条殿には劣らぬ正しい源家の流れ。
家職といえば現帝の御被官。
なぜ、遠いお旅をば、供人も召されずに」
「とかく、故なき上洛は、
鎌倉の幕府の忌《い》むところでございまする。
が、父貞氏の健やかなうち、
少しなと世上の見聞《けんもん》を広うしておきたいものと、
たって父母にねだって出て参ったのです。
忍びやかでこそ、六波羅の身寄りの家にも置かれますので」
「なるほど、朝家《ちょうか》の御被官であるだけでなく、
幕府の御家人でもおわせられたの。こりゃ、むずかしかろ」
やはり世事にはうとそうな老歌人の言である。
為定は抜け歯の多い口をあいて笑った。
🌖🎼空の鏡 written by すもち
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