法皇が世を厭われたのは当然であろう。
あれほど強かった政治への執心も
今は全く薄れ消えたかに思われた。
「今の世の政治にかかわろうとは露も思わぬ。
ただ霊山名刹を廻って修行し、心慰めたいものである」
と側近にもらされていた。
さる安元以来、多くの大臣公卿を殺し、
あるいは流し、法皇を押しこめたり、
第二皇子高倉宮を討ちとるなど、
悪逆非道の行ないを尽している平家の残された悪行は、
都うつりだけである。それでこの挙に出たものであろうか、
などと人々はいい交していた。
もっとも都うつりには多くの先例がある。
神武天皇以来代々の帝王が都をうつすことは
三十度にも四十度にもなる。
桓武天皇の御代、延暦《えんりゃく》三年十月三日に、
奈良の都、春日《かすが》の里から山城国長岡にうつり、
その十年の正月に大納言藤原|小黒麻呂《おぐろまろ》、
参議|左大弁紀古作美《さだいべんきのこさみ》、
大僧都玄慶《だいそうずげんけい》らを
この国の葛野郡宇多村《かどのこおりうだのむら》に遣わしたところ、
「この地の形相をみまするに、
左《さ》青竜《しょうりゅう》、右《う》白虎《びゃっこ》、
前《ぜん》朱雀《すざく》、
後《ご》玄武《げんむ》の四神の配置にふさわしき土地、
帝都の地としてまことに適当と存じます」
という奏上があった。
そこで天皇は愛宕郡《おたぎのこおり》にある賀茂大明神にこれを告げ、
延暦十三年十一月二十一日、長岡の都からこの京へうつられ、
以後帝王三十二代、星霜三百八十余歳を数えたのである。
これ以来代々の天皇は、
諸所に都をうつされたが何れもこの京都ほどの地はなかった。
🌺🎼#花散ル風 written by #蒲鉾さちこ
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