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源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸

源氏物語&古典をはじめ、日常の生活に雅とユーモアと笑顔を贈ります🎁

【私本太平記9 第1巻 大きな御手〈みて〉①】彼方からおん輿の屋根にきらめく金色の鳳がゆらゆら見えて来た。みゆき先は、つい京極の大炊御門なので、関白、諸大臣、公卿殿上人ら、すべて供奉は徒歩であった。

 あいにく、正月三日の空は、薄曇りだった。

そして折々は映《さ》す日光が、

北山の遠い雪を、ふと瞼にまばゆがらせた。

——天皇の鸞輿《らんよ》は、もう今しがた、

二条の里内裏《さとだいり》をお立ち出でと、

沿道ではつたえていた。

行幸《ぎょうこう》や御幸《ごこう》を仰ぐのは

めずらしくない都の男女だったが、

朝覲《ちょうきん》の行幸《みゆき》と知って

「……今日ばかりは」

の、ひしめきらしい。

 まことに、今上《きんじょう》(後醍醐天皇)としても、

公な父皇への御訪問は、

即位後、初めての御儀だった。

今後とて公な御対面としては、

御一代あるかないかもしれないのである。

 子が父を訪い母と会うにすら、

こんな儀式が必要事とされるのも、

天皇なればこその、おわずらいよと、

たくさんな庶民の中には、その不自然な御環境に

「——なんたる、御不自由さか」

と、お気のどくを感じた者もいたかもしれない。

が、おそらくは万人が万人、それとは逆に、

「おなじ人間と生れながら」

 と、金鳳《きんぽう》の御輿《みこし》にある人と、

板ぶき小屋に生れついた凡下《ぼんげ》とをひきくらべて、

つい羨《うらや》ましくも見たであろう。

 といっても、人皇《じんのう》九十六代の現世まで、

天皇と民とは、生れ出ぬ以前から、こうあるものと、

すでに約束づけられていた国土である。

それ以上には、

何を思いもせず悩みもせぬ群集ではあった。

なおさらなこと、

天皇御自身にも九五《きゅうご》の尊《そん》を、

自由のない不幸な地位などとは、

ゆめ御思惟《ごしい》するはずもあるまい。

いや、帝としては、むしろ今日の朝覲の御儀も

「時を得たしるしぞ」

として、満足以上なおここち栄えのうちに、

未来のおん夢も、さまざまだったのではあるまいか。

 今上の後醍醐は、

じつに前例のないほどおそい御即位だった。

皇太子たるまま十年も

臣下の吉田大納言|定房《さだふさ》の邸に養われ、

つい四年前、

おん年三十一で、万乗の君となられたばかりである。

——時をえて、という御感慨は、今日ばかりのお胸ではない。

 やがて。

先駆が通って、しばらくすると、

彼方からおん輿の屋根にきらめく金色の鳳《とり》が

ゆらゆら見えて来た。

みゆき先は、つい京極の大炊御門《おおいみかど》なので、

関白、諸大臣、公卿殿上人ら、

すべて供奉《ぐぶ》は徒歩《かち》であった。

 それにせよ、列の流れははなはだおそい。

せまい四ツ辻などにさしかかると、

まるで林みたいに立てた両側の民家の門松の枝が、

おん輿の御帳《みちょう》につかえて、

内なる龍顔をふとあらわにしたりした。

 道に白砂をしき、軒に門松を立て渡す風は、

その頃には、正月だけの景色でなく、

大行幸《おおみゆき》やら祭渡御《まつりとぎょ》には、

令が出て、時を問わぬ慣《なら》いであった。

が、時により土地《ところ》によって、

竹、さかき、椎、しきみ、椿なども立てたりはする。

 いずれはこれも、唐風俗の移入からであろうが、

要は、民家の貧しさをおおうためにあったのだから、

帝室では、由来、門松は立てなかった。

🌸🎼氷ノ河 written by TOGA

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