また高倉宮の子は奈良にも一人いたが、
守護役の讃岐守重秀《さぬきのかみしげひで》が出家させて、
北国へ逃れ落ちていった。
後に木曽義仲が京へ攻めのぼるとき皇位につけようと
還俗《げんぞく》させたので、還俗の宮とも、
木曽の宮ともよばれたのである。
昔、通乗という人相の達人がいたが、
宇治関白頼通、二条関白教通の相を見て、
三代の天子の関白となり八十歳長寿を保つといったが、
見事これに違わなかった。
この達人が高倉宮の人相は
皇位につかれるべき御相だなぞといっていた。
人々は人相を占った通乗のことをさまざまに噂しては、
以後信頼を寄せなかったのである。
さて清盛は事態が収まると恩賞を行った。
まず宮の謀叛調伏について必死に祈念した高僧たちに
それぞれ位を与えた。
重盛の子侍従清宗は三位に叙せられたが、
その辞令には、
「源以仁《みなもとのもちひと》、
並びに三位入道頼政父子追討の賞」
とあった。
源以仁とは高倉宮のことである。
皇子を討った上に臣下扱いの姓を与えるなど、
あさましい行ないの限りであろう。
🌕🎼月へ続く道 written by すもち
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