
ほどなく、おん輿は、
京極おもての院の棟門《むなもん》につく。
夙《つと》に、お待ちうけらしいたたずまいである。
院司《いんじ》の上奏あって、
すぐ乱声《らんじょう》(雅楽部の合奏)のうちに、
鸞輿は、さらに中門へ進められた。
みかどの父ぎみ、後宇多《ごうだ》法皇は、
まだ五十五、六でおわせられた。
が、御愛人の遊義門院の死に会うて、
御法体《ごほったい》となられてからは、
俄に、老《ふ》けまさッてお見えであった。
が、ひとつには。
二ノ御子《みこ》尊治《たかはる》(後醍醐の御名)の
即位をやっと見給うたこと。
また、院政という歴代にわたる厄介な
二政府式の弊《へい》も廃して、
天皇一令のむかしに復元されたので、
「……まず、これで」
という御安息やら、閑居のおん空しさなども、
手伝うてのことと、
侍側や蔭の女房たちは憂いもなくお見上げしている。
どれも当っていなくはない。
けれど、父皇の老いの影や、
過去半生の真の御苦労さなどをよく知る者は、
やはり御子《みこ》の後醍醐に如《し》く君はなかった。
明け暮れ、北条氏という姑《しゅうとめ》に、
いじめ抜かれたためよ。
——もし世に、幕府というものがなかりせば。
今も今とて、
父子対面の賀の御座《ぎょざ》に向い合われると、
御子のみかどには、父皇のおやつれが、
すべて対幕府の御心労にあった果てと仰げて、
いきどおろしく、うら哀しく、
じんとお胸にせまるのだった。
いきさつは、かんたんでなく、
また朝幕の間にわだかまる禍根も古い。
「…………」
つねには、なかなかお会いの折とてないので、
後宇多法皇にも、とつ、おことばも、すぐにはなかった。
香染《こうぞめ》のおん衣《ぞ》、
おなじ色のみ袈裟《けさ》、
まき絵の袈裟|筥《ばこ》をそばにおかれ、
寝殿中央に御座あって、
まんまえの廂《ひさし》の玉座《おまし》に束帯低う
“御拝《ぎょはい》ノ礼”をとられた天皇のおすがたを、
ただじっと見まもっていらっしゃる。
親ごころ、推し量《はか》るに。
——さすが違うものかな。
吉田定房の家にあった皇太子の頃とはずんと違って、
ああ、ゆゆしい大君《たいくん》ぶりになられしよ。
と、頼もしげに、
御覧《ごろう》ぜられているかに思われた。
こう御対顔の間は、奏楽も止み、
関白ノ内経、諸大臣らは、床《ゆか》のすえにひれ伏し、
西と東の中門廊にも、
多勢の上達部《かんだちべ》(上級の公卿)が、
御簾《みす》揚げわたした辺りの一点を、粛と、
見やり奉っていた。
すると、その中にいた吉田ノ大納言定房が、
とつぜん直衣《のうし》の袖ぐちを眉にあてて
泣きすすりをもらした。
みかどがまだ尊治親王
《たかはるしんのう》とよばるる御身分にすぎなかった幼少から、
わが家にてお養《そ》だて申しあげて来た
いわゆる乳父《めのと》の彼であった。
「……さてこそ、無理からね。そのかみの古ごとなど、
さまざま思い出しての、うれし泣きであろうに」
と人々は、今日の事に会った定房の感慨のほども察していた。
ここで“御拝ノ礼”がすむ。
みかどは、一たん階《はし》ノ間から公卿の座へ戻られ、
法皇もまた内へ入らせ給うて、あらためてのお席となる。
そして再び、楽部の伶人の奏楽につれ、
次の御宴では、
法皇もお茵《しとね》ばかりのおくつろきだった。
——また、内裏から御供してきた女房たちも、
一の車、二の車、三の車と、
それぞれの簾から匂いこぼれて、
末の廂の間に妍《けん》を競うた。
おくつろぎの宴となってからは、
みかども法皇も、時をおわすれ顔で、
まことに御父子のおん仲でこそと見えた。
🪷🎼Zen Dawn written by こおろぎ
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