「おあとに、何か」
「いや、覚一の姿が、まだわしたちを見送っておる」
「はて。見えもせぬ眼で」
「そうでない。見える眼も同じだ。
わしたちを振向かせているではないか」
——この日、都を離れた主従は、
当然、数日後には、
東海道なり東山道の人となっているべきはずなのに、
やがて正月十日の頃、二人の姿は、
方角もまるで逆な難波《なにわ》ノ津(大阪)のはずれに見出された。
渡辺党の発祥地《はっしょうち》、
渡辺橋のほとりから、昼うららな下を、
長柄《ながら》の浜の船着きの方へ行く二人づれがそれで。
「若殿、どうしても、思い止まりはできませぬか」
「まだいうのか」
「でも、今日の便船にお乗りになってしもうては」
「そのため幾日も船宿で日を暮して来たのに、
この期《ご》となって」
「——が、難波の諸所も、はからず見ましたこと。
このたびは、ぜひこの辺でお引っ返し願いまする。
お国元のお案じも、ただ事ではございますまい。
右馬介も腹切らねばなりませぬ」
「切れよ、腹の一つや二つ」
「二つとは持ち合せもございませぬで」
「はははは。冗談はやめよう」
「おやめ下さい、無謀なご遍歴も」
「無謀にみゆるか。
又太郎にはしかとした算用もあっての旅路を。
元々、足利ノ庄を立ち出たときから、
こたびこそは、いッその旅、都だけかは、
四国中国までもと、期していたのだ」
「では、初めからご両親やら上杉殿をも、
お騙《あざむ》きのお腹だったので」
「仕方がない。出立前から長途の遍歴などと願っても、
おゆるしのあるはずもなければ」
ここ数日、主従喧嘩づらの論もしたが、
又太郎高氏の初志は、変ろうともしなかった。
機会はふたたびないと彼はいうのである。
東国と西国との距離は、当時、若人の心にすら、
一 期《ご》を思わせる遠さだったことにはまちがいない。
そうした心情は察しられるし、
もしまた、高氏が足利家当主の跡目をつげばなおさらである。
右馬介とて無理解ではありえない。
だが、伊勢路から都を限ってと、
日数までもあらかじめ、主家の両親とは約してあること。
そして
「そちも、ついて行くからには」
と命じられて来たものだ。
これ以上、
若殿の気随気ままに唯々《いい》として引かれたのでは、
何の守役《もりやく》たる効《か》いがあろう。
右馬介は一命をかけても引き止めたい。
「や。あの船着小屋の人立ちは」
不承不承な彼にひきかえ、一方は急に大股となった。
見ていると、
又太郎はもう人中に紛《まぎ》れ込んで、
何やら雑人たちの高ばなしに耳をすましている様子。
それをこなたの右馬介は、磯石に腰かけこんで、
なおさいごの思案に沈んでいた。
するとまた、駈け戻って来た又太郎が、こう叫んだ。
「やよ、右馬介。帰ろう。帰ろうっ。
どうやら北の国で戦乱が起ったらしいぞ。
遍歴などはしておられぬ。
すぐ東国|下野《しもつけ》へ馳《は》せ戻ろうわい」
右馬介は耳を疑った。
何か、ありえぬ空音《くうおん》のように聞えたのである。
「えっ、北方の戦乱ですッて。
戦乱が起ッたと取沙汰しているのでございますか」
武家の扶持《ふち》を食う身が、戦乱の一語ぐらいで、
寝耳に水の驚きをうけたのは、
いささか不覚と省《かえり》みたりしたことも、
よけい彼を戸惑わせたものかもしれない。
もとの船宿の方へ、引っ返してゆく又太郎を追って、
もいちど、念を押してみた。
「北方の乱とは、
もしや九州沿海のお聞き違いではございませぬか。
北にはあらで、南なら、うなずけますが」
「なんで」
「元寇《げんこう》の国難も、
はや四十年の昔とすぎておりますが、
蒙古再来の脅《おび》えはいまだに失せておりません。
そのため九州探題の下には、博多警固番をおかれ、
常時、沿海の防禦にそなえておりまする。
が、しばしば異《い》な船影を認めるたび、
すわ、元兵の襲来ぞなどと、九州鎌倉の往還を、
あわてた早馬がムダ駈けする例も、ままございますのでな」
「それとの、誤聞だろうと申すのか」
「おそらくは」
「ばかな」
「ちがいましょうか」
「ちがう。大違いだわ」
又太郎は、一歩も待つなく——
「ともあれ、異変の兆《きざ》しは、蝦夷《えぞ》の空だ。
仔細は船宿で話してくれる。はやく参れ」
時乱に敏感なのは、いつのときでも、
官辺よりは民衆だった。
彼らのつたえる風聞には、
公な文書《もんじょ》だの早馬だのという手間暇なしに、
おそろしい直感力と風速を持っている。
つい今。——又太郎が小耳にはさんだのも、それなのだ。
🌿🎼Restart written by のる
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