京では、奈良興福寺が三井寺と手を組み、高倉宮を受け入れたり、
あるいは迎えに兵を出すなどの行為は、明らかに朝敵であると断じた。
奈良には、平家が攻め寄せるとの噂が伝わったので大衆は一斉に騒ぎ出した。
これを聞いた関白はことを穏便に計ろうと
有官《うかん》の別当忠成《べっとうただなり》を使者として立てた。
「いうべきことあらば申し述べよ、何度でも奏上して仕わそう」
というのである。奈良にこの意を体して赴いた別当忠成の鎮撫《ちんぶ》の言は、
いきり立った興福寺の大衆の耳に入らなかった。
まして年来平家に対して憎悪の念を抱きつづけてきた寺である。
兵が攻めるとの噂にも殺気立っていた。大衆はどっと忠成を取り囲んだ。
「乗物から引きずり下ろせ、かまわぬから髻《もとどり》を切ってしまえ」
と口々に叫ぶ。忠成は青くなって逃げ帰った。
次に使いとなった右衛門督親雅《うえもんのかみちかまさ》も
大衆から同じ待遇を受けたが、
二人の雑色《ぞうしき》が髻を切られてしまった。
二人の使いを追い帰した奈良では、
余勢をかって毬杖《ぎっちょう》の玉の大きなものを作り、
目鼻をつけるとこれを入道清盛の首と称して、
踏め、打てなどはやし立てる中を、玉を蹴り、
棒で叩くなど大いに憂《うれい》を晴らしていた。
天皇の外祖である入道にこのような仕打ちをするのは、
天魔の仕業であるという非難も多く聞かれた。
清盛は大衆を鎮める決意を固めたが、ことは慎重に運ばれた。
瀬尾太郎兼康《せのおのたろうかねやす》を大和国の検非違使に任じ、
五百余騎をひきいて奈良に向うことになったが、
出発のとき清盛は更に慎重な注意をあたえた。
「衆徒はいま気が立っておるが、奴等が狼藉《ろうぜき》に及ぶとも相手になるな。
甲冑も弓矢も共に避けよ。こちらから打って出ることは断じてまかりならぬ」
兼康は武装のない兵五百余騎とともに奈良へ着いたが、
もとよりこの間の事情を大衆が知るはずはない。
すわ敵寄せたるぞ、とこれを囲み六十四人を捕縛するや一人一人の首をはね、
猿沢《さるさわ》の池の端にずらりとかけ並べて見せしめとした。
兼康からの報告をきくと今度は清盛も心底から怒った。