光源氏36歳の春から夏の話。
3月20日頃、源氏は春の町で船楽(ふながく)を催し、
秋の町からも秋好中宮方の女房たちを招いた。夜も引き続いて管弦や舞が行われ、
集まった公卿や親王らも加わった。
中でも兵部卿宮(源氏の弟)は玉鬘に求婚する一人で、源氏にぜひにも姫君をと熱心に請うのだった。
翌日、秋の町で中宮による季の御読経が催され、
船楽に訪れた公卿たちも引き続いて参列した。
紫の上は美々しく装った童たちに持たせた供養の花を贈り、中宮と和歌を贈答した。
夏になり、玉鬘の下へ兵部卿宮、髭黒右大将、柏木らから次々と求婚の文が寄せられた。
それらの品定めをしつつ、いつか玉鬘への思慕を押さえがたくなった源氏は、
ある夕暮れにとうとう想いを打ち明け側に添い臥してしまう。
源氏の自制でそれ以上の行為はなかったものの、世慣れぬ玉鬘は養父からの思わぬ懸想に困惑するばかりだった。
↓フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用しました。
‥三月の二十日《はつか》過ぎ、
六条院の春の御殿の庭は平生にもまして多くの花が咲き、
多くさえずる小鳥が来て、
春はここにばかり好意を見せていると思われるほどの自然の美に満たされていた。
築山《つきやま》の木立ち、池の中島のほとり、広く青み渡った苔《こけ》の色などを、
ただ遠く見ているだけでは飽き足らぬものがあろうと思われる若い女房たちのために、
源氏は、前から造らせてあった唐風の船へ急に装飾などをさせて池へ浮かべることにした。
船|下《お》ろしの最初の日は御所の雅楽寮の伶人《れいじん》を呼んで、
船楽を奏させた。親王がた高官たちの多くが参会された。
このごろ中宮は御所から帰っておいでになった。
去年の秋「心から春待つ園」の挑戦的な歌をお送りになったお返しをするのに
適した時期であると紫の女王《にょおう》も思うし、
源氏もそう考えたが、尊貴なお身の上では、
ちょっとこちらへ招待申し上げて花見をおさせするというようなことが不可能であるから、
何にも興味を持つ年齢の若い宮の女房を船に乗せて、
西東続いた南庭の池の間に中島の岬《みさき》の小山が隔てになっているのを
漕《こ》ぎ回らせて来るのであった。
東の釣殿《つりどの》へはこちらの若い女房が集められてあった‥