
十月二十四日早朝六時、富士川で源平の矢合せと決まる。その前夜である。
決戦を控えて緊張した平家の侍どもが、対岸の源氏の陣を見渡した。
野に火が上り、海に浮び、河に灯《うつ》る。おびただしい火の大群である。
これらはいずれも合戦におびえた伊豆、駿河の人民百姓が野に隠れ、船で逃げ、
炊事した火であったが、夜対岸から見れば陣営の遠火《とおび》とも見える。
驚くべき大軍じゃ、野も山も河も源氏の勢で埋められたるぞ、
とその狼狽《ろうばい》は一方でない。
おののき恐れる心を押さえて、不安の夢をむさぼっていた夜半、
富士川より突如大音響がひびいた。
雷にもまた大風に似た恐ろしい響が平家陣を一度に揺り起した。
何の物音に驚いたか、夜半俄かに飛立った富士の沼の水鳥の羽音であったが、
すでに源氏の遠火で十二分に心胆を寒からしめた平家の侍にとって、
伝わる響を判別するゆとりはなかった。
源氏の夜襲か、と疑心に口走る叫びが伝われば、どっと浮足立つのは当然であろう。
「昨日《きのう》斎藤別当実盛が申したように、
甲斐、信濃の源氏が搦手より廻ったのではないか、包囲されてはかなわぬ、
敵は何十万騎あるかも知れぬ、ここを捨てて尾張川、洲股《すのまた》を防げ」
という、いささか理屈にかなった説が飛び出すようでは、
この混乱も収拾がつくはずはない。
口々に叫びをあげながら、一目散に闇夜を走り出す。
武器も家宝の鎧もあったものではなかった。
弓を掴めば矢を忘れ、太刀を握れば鞘《さや》だけ残し、人の馬には自分が乗り、
日頃自慢する自分の愛馬には他人がしがみつく。
手近な馬に殺到するから馬のつないだのさえ判らぬのである。
安全地帯目ざして本人は一気に疾駆しているつもりだが、
陣屋の廻りを必死に堂々めぐりする勇敢な武士もいた。
陣営でさえこの調子であったから、浩然《こうぜん》の気を養うと称して、
付近から遊女をかき集めて酒宴深更に及び、桃源の夢に耽っていた侍たちは、
ほとんど半狂乱であった。
頭を蹴割られ、腰骨を踏み折られた遊女が、闇の中で泣き叫ぶ。
水鳥の羽音の最大の被害者はこのへんであったとも思われた。
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