いやいや、わしは決して人をだましたり、からかったりいたしはせぬ。
この文覚、清水の観音を深く信じ頼りにしているものじゃ、
わしの知合いといったら観音以外にないのじゃよ」
賄賂《わいろ》をとり損って仏頂顔の護送役と共に、
文覚は伊勢国|阿能《あの》の津から船で東国へ下った。
遠江国天竜灘にさしかかったとき、海が俄かに荒れた。
突風にあおられた激浪は船を木の葉のごとくもてあそび、
船頭水夫の必死の作業も及ばず、転覆寸前の状態となった。
風浪いよいよ険しくなれば、舵を離し帆を捨てた乗組員は観音の名を連呼し、
観念したものは念仏を唱えるなど、
沈没を目前にひかえた船上はいよいよ断末魔の様相をおびてきた。
文覚は先程から船底にあって、
木の葉に揺れる舟を
心地よい揺籠《ゆりかご》と心得たかあたりはばからぬ大鼾《おおいびき》で、
荒れ狂う海など知らぬ気に眠りつづけている。
しかし傾きに傾いた船がもはや沈没かと思われたとき、俄かに両眼をかっと開き、
身を躍らせ船底より甲板に出るや、仁王立ちとなって逆巻く海を睨らみつけると、
波の音も消す大音声を張り上げた。
「竜王はいずくぞ、竜王はおるか。聞け、竜王よ、
大願を起した聖の御坊この舟に乗る。過《あやま》とうとすな、
過たばただいま天の責めを受けようぞ、竜王よ聞け」
この声が竜王にとどいたか、あれほど荒れ狂っていた波風が、ほどなく静まった。
怒濤よりも文覚を恐れた乗組員と護送役を運ぶ船は、
穏かな海路を渡ってやがて伊豆の国に着いた。
文覚は京を立つ時より、心の中に深く誓ったことがあった。再び京にもどり、
悲願の高雄神護寺創立供養をするまでは決して死なぬ。
もしこの願かなわぬならば途中死ぬであろう、という誓である。
彼は断食した。京都から伊豆まで穏やかな順風の日は少なかったので、
浦づたいの船路は実に三十一日を費したが、そのあいだに文覚の断食はつづけられた。
船底にあって修行を行ないながら伊豆の国に着いたが、少しも気力は衰えず、
これを見る人の眼に彼の姿は尋常の人間とはとても信じられなかった。
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