——前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。
後半、古來の伝えごとに關心をもたれ、
これをもつて國家經營の基本であるとなし、
これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、
まだ書物とするに至らなかつたことを記す。——
飛鳥《あすか》の清原《きよみはら》の大宮において
天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、
まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。
しかしながら時がまだ熟しませんでしたので
吉野山に入つて衣服を代えてお隱れになり、
人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。
お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、
軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。
武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、
赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。
まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。
そこで軍に使つた牛馬を休ませ、
なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、
歌い舞つて都におとどまりになりました。
そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、
天皇の位におつきになりました。
その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。
神器を手にして天下を統一し、
正しい系統を得て四方八方を併合されました。
陰と陽との二つの気性の正しいのに乘じ、
木火土金水の五つの性質の順序を整理し、
貴い道理を用意して世間の人々を指導し、
すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。
そればかりではなく、
知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、
心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは
「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辞とが、
既に真実と違い多くの僞りを加えているということだ。
今の時代においてその間違いを正さなかつたら、
幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。
これは国家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。
そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」
と仰せられました。
その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。
年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で読み伝え、
耳で聞いたものはよく記憶しました。
そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。
しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。
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