源氏は言っていたように十六夜《いざよい》の月の
朧《おぼ》ろに霞《かす》んだ夜に命婦を訪問した。
「困ります。こうした天気は決して音楽に適しませんのですもの」
「まあいいから御殿へ行って、
ただ一声でいいからお弾《ひ》かせしてくれ。
聞かれないで帰るのではあまりつまらないから」
と強《し》いて望まれて、
この貴公子を取り散らした自身の部屋へ置いて行くことを
済まなく思いながら、
命婦が寝殿《しんでん》へ行ってみると、
まだ格子《こうし》をおろさないで
梅の花のにおう庭を女王はながめていた。
よいところであると命婦は心で思った。
「琴の声が聞かせていただけましたらと
思うような夜分でございますから、
部屋を出てまいりました。
私はこちらへ寄せていただいていましても、
いつも時間が少なくて、
伺わせていただく間のないのが残念でなりません」
と言うと、
「あなたのような批評家がいては手が出せない。
御所に出ている人などに聞いてもらえる芸なものですか」
こう言いながらも、すぐに女王が琴を持って来させるのを見ると、
命婦がかえってはっとした。
源氏の聞いていることを思うからである。
女王はほのかな爪音《つまおと》を立てて行った。
源氏はおもしろく聞いていた。
たいした深い芸ではないが、
琴の音というものは他の楽器の持たない異国風な声であったから、
聞きにくくは思わなかった。
この邸《やしき》は非常に荒れているが、
こんな寂しい所に女王の身分を持っていて、
大事がられた時代の名残《なごり》もないような生活をするのでは、
どんなに味気ないことが多かろう。
昔の小説にもこんな背景の前によく佳人が現われてくるものだなどと
源氏は思って今から交渉の端緒を作ろうかとも考えたが、
ぶしつけに思われることが恥ずかしくて座を立ちかねていた。
命婦は才気のある女であったから、
名手の域に遠い人の音楽を長く源氏に聞かせておくことは
女王の損になると思った。
「雲が出て月が見えないがちの晩でございますわね。
今夜私のほうへ訪問してくださるお約束の方がございましたから、
私がおりませんとわざと避けたようにも当たりますから、
またゆるりと聞かせていただきます。
お格子をおろして行きましょう」
命婦は琴を長く弾《ひ》かせないで部屋へ帰った。
「あれだけでは聞かせてもらいがいもない。
どの程度の名手なのかわからなくてつまらない」
源氏は女王に好感を持つらしく見えた。
「できるなら近いお座敷のほうへ案内して行ってくれて、
よそながらでも女王さんの
衣摺《きぬず》れの音のようなものを 聞かせてくれないか」
と言った。
命婦は近づかせないでよりよい想像をさせておきたかった。
「それはだめでございますよ。
お気の毒なお暮らしをして、めいりこんでいらっしゃる方に
男の方を御紹介することなどはできません」
と命婦の言うのが道理であるように源氏も思った。
男女が思いがけなく会合して 語り合うというような階級にははいらない、
ともかくも貴女なんであるからと思ったのである。
「しかし、将来は交際ができるように私の話をしておいてくれ」
こう命婦に頼んでから、
源氏はまた今夜をほかに約束した人があるのか帰って行こうとした。
【源氏 第六帖 末摘花】
乳母子の大輔の命婦から亡き常陸宮の姫君の噂を聞いた源氏は、
「零落した悲劇の姫君」という幻想に憧れと好奇心を抱いて求愛した。
親友の頭中将とも競い合って逢瀬を果たしたものの、
彼女の対応の覚束なさは源氏を困惑させた。
さらにある雪の朝、姫君の顔をのぞき見た光源氏はその醜さに仰天する。
その後もあまりに世間知らずな言動の数々に辟易しつつも、
源氏は彼女の困窮ぶりに同情し、また素直な心根に見捨てられないものを感じて、
彼女の暮らし向きへ援助を行うようになった。
二条の自宅で源氏は鼻の赤い女人の絵を描き、
さらに自分の鼻にも赤い絵の具を塗って、若紫と兄妹のように戯れるのだった。
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