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源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸

源氏物語&古典をはじめ、日常の生活に雅とユーモアと笑顔を贈ります🎁

法性寺入道前関白太政大臣 76番  🌊わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波

法性寺入道前関白太政大臣 76番『詞花集』雑下・382

【法性寺入道前関白太政大臣 ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん

🌊わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波

〜広々とした海に舟を漕ぎ出して、遥かかなたを見渡すと、

沖の方には白い雲に見間違えるほど 大きな白波が立っていたのです。

💠 藤原忠通 💠ふじわらのただみち (1097~1164年)

摂政関白 藤原忠実(ふじわらのただざね)の息子。

若いうちから関白・氏の長者となり、太政大臣従一位に至りました。

晩年には出家して「法性寺殿」と呼ばれました。

保元の乱の時には後白河天皇側につき、 崇徳上皇・藤原頼長と対立。

平清盛らの軍勢が崇徳上皇側を破り、勝利を収めます。

兼実慈円の父。

保元の乱(ほうげんのらん)保元元年(1156年7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

 

忠通は能書として誉れ高く、天永2年(1111)10月の詩会でその書を見た藤原宗忠は、

「就中御手跡、誠以神妙也」とこれを絶賛している『中右記』より

すごいのは、これが忠通 15歳の時の話だとか🌟

大内裏新造の折は、殿舎、門の額も書いており名声のほどがうかがわれます🌿

 

九条兼実殿 慈円殿は、忠通殿の御子息です🌸

対立していた藤原頼長様です。悪左府あくさふと呼ばれるほど厳しいところもありましたが、

猫さんのお葬式をするなど、優しいところもある方でした。

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まず無難な人らしゅうございます。

あのあとの代々の長官が特に敬意を表して求婚するのですが、入道は決して承知いたしません。

自分の一生は不遇だったのだから、娘の未来だけはこうありたいという理想を持っている。

自分が死んで実現が困難になり、自分の希望しない結婚でもしなければならなくなった時には、

海へ身を投げてしまえと遺言をしているそうです」

源氏はこの話の播磨の海べの変わり者の入道の娘おもしろく思えた。

竜宮の王様のお后になるんだね。自尊心の強いったらないね。困り者だ」