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源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸

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🌸儀同三司母(54番) 忘れじの 行末までは かたければ  今日を限りの 命ともがな

🌸儀同三司母(54番)新古今集 恋・1149

忘れじの 行末までは かたければ  今日を限りの 命ともがな

〜いつまでも忘れまいとすることは、遠い将来まではとても難しいものです。

いっそのこと、 今日をかぎりに 命が尽きてしまえばいいのに。

🌸儀同三司母🌸 ぎどうさんしのはは(生年不明 ?~996年)

従二位式部卿 高階成忠の娘 名は貴子。

藤原兼家の子、道隆と結婚。 藤原伊周隆家一条天皇の皇后 定子らの母。

儀同三司とは「儀三司に同じ」という意味で、

三司(太政大臣、左大臣、右大臣)と同じ貴人のことを指す。

藤原伊周は准大臣の待遇だったので、 その母を「儀同三司の母」と呼びました。

隆家太宰権帥(だざいのごんのそち)となり、

刀伊の入寇(といのにゅうこう)では、国を守った英雄である。 

 

儀同三司母は、中宮定子、伊周公、隆家公の母君でもあります。

一条天皇に深く愛された才色兼備の定子様。

悲しいこと辛いこともあっただろう定子様ですが、

美しく賢く優しい人柄、帝に心から愛された后として

清少納言の枕草子により

日本史で輝ける皇后として永遠に語り継がれることになりました。

 

夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(後拾遺536)

一晩中契(ちぎ)りを交わしたことをお忘れでないなら、

私の死んだ後、あなたが恋しがって流す涙の色がどんなでしょう。

それが知りたいのです。

権力者 藤原道長により ずいぶん意地悪をされた定子様‥

この歌を詠むと涙が出ます😢

でも、ぜひ 清少納言の枕草子を読んでいただきたい。

権力に筆一本で立ち向かった清少納言という女人。

清少納言が、ここまでしても護りたい支えたいと思う方‥

それが定子皇后です🌸

藤原伊周公がヘタこいたおが長徳の変でございますが、

実は日本国がこれによって外敵に蹂躙されずに済んだのです‥

刀伊の入寇、日本の危機を救った英雄 藤原隆家公の母君でもあります。

↓刀伊の入寇について詳しく知りたい方はこちらをご覧ください

↑リンクより引用

藤原隆家の手紙からも分かるように、刀伊が最初に来襲したのは対馬島でした。

そのあと、刀伊は対馬島から南下し、壱岐島を襲撃し、さらに九州北部沿岸まで到達します。

対馬島と壱岐島での詳細な戦闘の様子は伝わっていませんが、『小右記』には、

「対馬島では、銀の鉱山が焼き払われたということである。殺害された人が18人。連れ去られた人は116人である」(『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条)、

というように被害の状況が記載されています。

さらに、壱岐島では148人が殺害され、239人が連れていかれました。

壱岐島の被害は甚大で、国司である藤原理忠も殺害され、

刀伊が去った後、壱岐島に残っていた人は35に過ぎなかったという記録も残されています。

隆家公の活躍について詳しく書かれています。ぜひご覧になってください。

↑記事より一部抜粋

――事件において目覚ましい活躍をした藤原隆家とはどんな人物ですか。

関:藤原道長の長兄・道隆の息子で、「闘う貴族」の代名詞のような人物です。

隆家の兄の伊周(これちか)は、叔父の道長とは政治的ライバルでした。

隆家もそうした関係から、道長に対抗意識を持っていたことが歴史物語『大鏡』に描かれています。

その隆家の大宰府赴任は、刀伊の入寇の5年ほど前でした。

異賊来襲の報に接するや、隆家は自ら軍勢を指揮し、博多の警固所に向かったとされます

隆家のリーダーシップは、親しい関係にあった藤原実資『小右記』に記されています。

二人は親子ほどの年齢差がありましたが、

ともに道長とは距離を置いており、ウマが合ったのでしょう。

『小右記』には隆家指揮下で活躍した武者たちの名も記されています。

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