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源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸

源氏物語&古典をはじめ、日常の生活に雅とユーモアと笑顔を贈ります🎁

最愛の桐壺更衣を失った失意の帝【源氏物語 桐壺8】第一親王が東宮におなりになる。桐壺更衣の母もなくなり、若宮は宮中におられることが多くなった。

 月も落ちてしまった。

『雲の上も 涙にくるる 秋の月

 いかですむらん 浅茅生《あさぢふ》の宿』

命婦が御報告した故人の家のことを

なお 帝は想像あそばしながら起きておいでになった。  

右近衛府《うこんえふ》の士官が

宿直者の名を披露するのをもってすれば 午前二時になったのであろう。

人目をおはばかりになって御寝室へおはいりになってからも

安眠を得たもうことはできなかった。

 

朝のお目ざめにもまた、

夜明けも知らずに語り合った昔の御追憶がお心を占めて、

寵姫の在った日も亡いのちも 朝の政務はお怠りになることになる。

お食欲もない。

簡単な御朝食はしるしだけお取りになるが、

帝王の御|朝餐《ちょうさん》として用意される

大床子《だいしょうじ》のお料理などは

召し上がらないものになっていた。

それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、

それらの人は皆この状態を歎《なげ》いていた。

すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると歎いた。

よくよく深い前生の御縁で、

その当時は世の批難も後宮の恨みの声もお耳には留まらず、

その人に関することだけは正しい判断を失っておしまいになり、

また死んだあとでは

こうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない、

国家のためによろしくないことであるといって、

支那《しな》の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。

 

幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。

ごくお小さい時ですら

この世のものとはお見えにならぬ御美貌の備わった方であったが、

今はまたいっそう輝くほどのものに見えた。

その翌年立太子のことがあった。

帝の思召《おぼしめ》しは第二の皇子にあったが、

だれという後見の人がなく、

まただれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、

かえってその地位は若宮の前途を 危険にするものであるとお思いになって、

御心中をだれにもお洩《も》らしにならなかった。

 

東宮におなりになったのは第一親王である。

この結果を見て、

あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間も言い、

弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》も安心した。

その時から宮の外祖母の未亡人は 落胆して

更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って

一心に御仏《みほとけ》の来迎《らいごう》を求めて、

とうとう亡くなった。

 

帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。

これは皇子が六歳の時のことであるから、

今度は母の更衣の死に逢った時とは違い、

皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。

今まで始終お世話を申していた宮と

お別れするのが悲しいということばかりを

未亡人は言って死んだ。

 

それから若宮はもう宮中にばかりおいでになることになった。

七歳の時に書初《ふみはじ》めの式が行なわれて学問をお始めになったが、

皇子の類のない聡明《そうめい》さに帝はお驚きになることが多かった。

「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。

 母親のないという点だけででもかわいがっておやりなさい」  

と帝はお言いになって、

弘徽殿へ昼間おいでになる時もいっしょにおつれになったりして

そのまま御簾《みす》の中にまでもお入れになった。

どんな強さ一方の武士だっても仇敵《きゅうてき》だっても

この人を見ては笑《え》みが自然にわくであろうと思われる

美しい少童《しょうどう》でおありになったから、

女御も愛を覚えずにはいられなかった。

 

この女御は東宮のほかに姫宮をお二人お生みしていたが、

その方々よりも第二の皇子のほうがおきれいであった。

姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相手としてお扱いになった。

学問はもとより音楽の才も豊かであった。

言えば不自然に聞こえるほどの天才児であった 🌸

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