源氏物語 第五帖 若紫(わかむらさき)
「書きそこねたわ」 と言って、恥ずかしがって隠すのをしいて読んでみた。 『かこつべき 故を知らねば おぼつかな いかなる草の ゆかりなるらん』 子供らしい字ではあるが、将来の上達が予想されるような、ふっくりとしたものだった。 死んだ尼君の字にも似…
「少納言の所で私は寝るのよ」 子供らしい声で言う。 「もうあなたは乳母《めのと》などと寝るものではありませんよ」 と源氏が教えると、悲しがって泣き寝をしてしまった。 乳母は眠ることもできず、ただむやみに泣かれた。 明けてゆく朝の光を見渡すと、建…
源氏は無心によく眠っていた姫君を抱き上げて目をさまさせた。 女王は父宮がお迎えにおいでになったのだと まだまったくさめない心では思っていた。 髪を撫《な》でて直したりして、 「さあ、いらっしゃい。宮様のお使いになって私が来たのですよ」 と言う声…
「宮様のほうから、にわかに明日迎えに行くと言っておよこしになりましたので、 取り込んでおります。 長い馴染《なじみ》の古いお邸《やしき》を離れますのも 心細い気のすることと私どもめいめい申し合っております」 と言葉数も少なく言って、 大納言家の…
「なぜそんなにお祖母様のことばかりをあなたはお思いになるの、 亡くなった人はしかたがないんですよ。お父様がおればいいのだよ」 と宮は言っておいでになった。 日が暮れるとお帰りになるのを見て、心細がって姫君が泣くと、 宮もお泣きになって、 「なん…
近ごろ隠れて通っている人の家が途中にあるのを思い出して、 その門をたたかせたが内へは聞こえないらしい。 しかたがなくて供の中から声のいい男を選んで歌わせた。 『朝ぼらけ 霧立つ空の 迷ひにも 行き過ぎがたき 妹《いも》が門かな』 二度繰り返させた…
「いくら何でも私はこの小さい女王さんを情人にしようとはしない。 まあ私がどれほど誠実であるかを御覧なさい」 外には霙《みぞれ》が降っていて凄《すご》い夜である。 「こんなに小人数で この寂しい邸《やしき》にどうして住めるのですか」 と言って源氏…
この十月に朱雀《すざく》院へ行幸があるはずだった。 その日の舞楽には 貴族の子息たち、高官、殿上役人などの中の優秀な人が舞い人に選ばれていて、 親王方大臣をはじめとして音楽の素養の深い人は そのために新しい稽古を始めていた。 それで源氏の君も多…
「私は病気であることが今では普通なようになっております。 しかしもうこの命の終わりに近づきましたおりから、 かたじけないお見舞いを受けました喜びを 自分で申し上げません失礼をお許しくださいませ。 あの話は今後もお忘れになりませんでしたら、 もう…
初秋の七月になって宮は御所へおはいりになった。 最愛の方が懐妊されたのであるから、 帝のお志はますます藤壺の宮にそそがれるばかりであった。 少しお腹《なか》がふっくりとなって 悪阻《つわり》の悩みに 顔の少しお痩せになった宮のお美しさは、 前よ…
源氏の恋の万分の一も告げる時間のあるわけはない。 永久の夜が欲しいほどであるのに、逢わない時よりも恨めしい別れの時が至った。 見てもまた逢ふ夜|稀《まれ》なる夢の中《うち》にやがてまぎるるわが身ともがな 涙にむせ返って言う源氏の様子を見ると、…
↑源氏物語68の間違いです 「少納言の乳母《めのと》という人がいるはずだから、 その人に逢《あ》って詳しく私のほうの心持ちを伝えて来てくれ」 などと源氏は命じた。 どんな女性にも関心を持つ方だ、姫君はまだきわめて幼稚であったようだのに と惟光は…
就寝を促してみても聞かぬ人を置いて、 歎息《たんそく》をしながら源氏は枕についていたというのも、 夫人を動かすことにそう骨を折る気にはなれなかったのかもしれない。 ただくたびれて眠いというふうを見せながらも いろいろな物思いをしていた。 若草と…
ちょうど源氏が車に乗ろうとするころに、 左大臣家から、 どこへ行くともなく源氏が京を出かけて行ったので、 その迎えとして家司《けいし》の人々や、子息たちなどがおおぜい出て来た。 頭中将《とうのちゅうじょう》、左中弁《さちゅうべん》 またそのほか…
「そんなことはどうでもいいじゃありませんか、 私が繰り返し繰り返しこれまで申し上げてあることを なぜ無視しようとなさるのですか。 その幼稚な方を私が好きでたまらないのは、 こればかりは前生《ぜんしょう》の縁に違いないと、 それを私が客観的に見て…
夜明けの空は十二分に霞んで、 山の鳥声がどこで啼《な》くとなしに多く聞こえてきた。 都人《みやこびと》には 名のわかりにくい木や草の花が多く咲き多く地に散っていた。 こんな深山の錦《にしき》の上へ 鹿が出て来たりするのも珍しいながめで、 源氏は…
「そうだね、若い人こそ困るだろうが私など、まあよい。 丁寧に言っていらっしゃるのだから」 尼君は出て行った。 「出来心的な軽率な相談を持ちかける者だと お思いになるのがかえって当然なような、 こんな時に申し上げるのは私のために不利なんですが、 …
奥のほうの室にいる人たちも起きたままでいるのが 気配《けはい》で知れていた。 静かにしようと気を配っているらしいが、 数珠《じゅず》が脇息《きょうそく》に触れて鳴る音などがして 女の起居《たちい》の衣摺《きぬず》れも ほのかになつかしい音に耳へ…
「その大納言にお嬢さんがおありになるということでしたが、 それはどうなすったのですか。 私は好色から伺うのじゃありません、まじめにお尋ね申し上げるのです」 少女は大納言の遺子であろうと想像して源氏が言うと、 「ただ一人娘がございました。 亡くな…
僧都がこの座敷を出て行く気配《けはい》がするので 源氏も山上の寺へ帰った。 源氏は思った。 自分は可憐な人を発見することができた、だから自分といっしょに来ている若い連中は 旅というものをしたがるのである、そこで意外な収穫を得るのだ、 たまさかに…
「雀《すずめ》の子を犬君《いぬき》が逃がしてしまいましたの、 伏籠《ふせご》の中に置いて逃げないようにしてあったのに」 たいへん残念そうである。 そばにいた中年の女が、 「またいつもの粗相《そそう》やさんが そんなことをしてお嬢様にしかられるの…
「でもどうかね、どんなに美しい娘だといわれていても、 やはり田舎者らしかろうよ。 小さい時からそんな所に育つし、 頑固な親に教育されているのだから」こんなことも言う。 「しかし母親はりっぱなのだろう。 若い女房や童女など、京のよい家にいた人など…
源氏は寺へ帰って仏前の勤めをしながら昼になると もう発作が起こるころであるがと不安だった。 「気をお紛《まぎ》らしになって、 病気のことをお思いにならないのがいちばんよろしゅうございますよ」 などと人が言うので、後ろのほうの山へ出て今度は京の…
源氏は瘧病《わらわやみ》にかかっていた。 いろいろとまじないもし、 僧の加持《かじ》も受けていたが効験《ききめ》がなくて、 この病の特徴で発作的にたびたび起こってくるのをある人が、 「北山の某《なにがし》という寺に 非常に上手《じょうず》な修験…